伊藤忠清
いとうただきよ
平安時代末期の武将。藤原忠清の名でも知られる。
概要
?~1185年
藤原秀郷の末裔である平家の有力家人・藤原(伊藤)景綱の子。通称は伊藤五。受領名は上総介。
父と共に平清盛配下として保元の乱に従軍した際、源為朝の矢に苦戦し弟・忠直を失っている。平家ことに小松家との関わりが深く、清盛の長男・重盛の側近、また重盛の長男である・維盛の乳母夫となり平貞能と共に重きを成した。
一時期、関東武士団の統括するために上総介に任じられ上総国に在国していた。しかし、現地の有力者である上総広常と揉め、広常の子・能常が弁明のため上洛した際に投獄するなどした。これらがのち上総氏が源頼朝に味方する一因になったという。
その後は京に戻ったらしく、治承・寿永の乱では以仁王・源頼政の追討に功績があった。のち源頼朝や武田信義らを討つため維盛を総大将とした関東追討軍では維盛の補佐を務めたが富士川の戦いに敗れた。この敗戦は清盛の怒りを買い忠清はあわや死罪に成りかかった。
清盛が亡くなり平宗盛が平家の棟梁になってからは微妙な立場になったためか、似たような立場だった平家継・貞能兄弟や平信兼ともども寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ちには同行しなかった。忠清は畿内にとどまり独自で木曾義仲との和睦を図るなど宗盛たちとは一線を画した動きを見せた。一ノ谷の戦いが終結した後の元暦元年(1184年)7月、忠清は家継や信兼らともに平氏の本拠地の伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こす。源氏方の佐々木秀義(佐々木高綱らの父)らを討ち取るが敗北。再び潜伏するが翌年の平家滅亡後に志摩で捕らえられて京で処刑された(第一次 三日平氏の乱)。
一門
- 藤原景綱(?~?):父。古市の伊藤武者と称した。
- 藤原景家(?~?):兄。受領名は飛騨守。「平家物語」では以仁王を自ら討ったとされる勇将。しかし、倶利伽羅峠の戦い以後は出家遁世したとも近江源氏の山本義経に討たれたともいう。
- 藤原忠直(?~1156年):弟。通称は伊藤六。上述の通り、父や兄と共に戦った保元の乱で戦死。
- 藤原忠綱(?~1183年):長男。名は忠経とも。通称は上総大夫判官。父と同じく平家の有力家人であったが倶利伽羅峠の戦いで戦死した。
- 藤原忠光(?~1192年):五男。通称は上総五郎兵衛。平家滅亡後、壇ノ浦から脱出し鎌倉に潜伏して頼朝暗殺を謀るも失敗に終わり殺害された。
- 藤原景清(?~1196年?):七男。通称は上総七郎または悪七兵衛。リンク先を参照。