ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

伊藤忠清の編集履歴

2021-01-19 19:45:07 バージョン

伊藤忠清

いとうただきよ

平安時代末期の武将。藤原忠清の名でも知られる。

概要

生没年:?~1185年

藤原秀郷の末裔である平家の有力家人。伊勢の藤原氏であるため伊藤を称した。

景綱の五男で通称は伊藤五。受領名は上総介。


父と共に平清盛配下として保元の乱に従軍した際、源為朝の矢に苦戦し弟・忠直を失っている。平家ことに小松家との関わりが深く、清盛の長男・重盛の側近として平貞能と共に重きを成した。また重盛の長男・平維盛の乳母夫を務めた。


一時期、関東武士団の統括するために上総介に任じられ上総国に在国していた。しかし、現地の有力者である上総広常と揉め、広常の子・能常が弁明のため上洛した際に投獄するなどした。これらがのち上総氏が源頼朝に味方する一因になったという。


その後は京に戻ったらしく、治承・寿永の乱では以仁王源頼政の追討に功績があった。のち源頼朝武田信義らを討つため維盛を総大将とした関東追討軍では維盛の補佐を務めたが富士川の戦いに敗れた。この敗戦は清盛の怒りを買い忠清はあわや死罪に成りかかった。


清盛が亡くなり平宗盛が平家の棟梁になってからは平盛国盛俊父子が重用され小松家に近かった忠清や貞能らは微妙な立場になった。


寿永2年(1183年)7月に宗盛は安徳天皇を連れて九州を目指して都落ちしたが、忠清を始め平家継・貞能兄弟や平信兼(山木兼隆の父)ら宗盛と距離を置いていた将たちは同行しなかった。このため都落ちに同行した息子の忠光や景清と離れ離れになってしまう。その忠清は畿内にとどまり独自で木曾義仲との和睦を図るなど宗盛たちとは一線を画した動きを見せた。一ノ谷の戦いが終結した後の元暦元年(1184年)7月、忠清は家継や信兼らともに平氏の本拠地の伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こし伊賀守護の大内惟義(平賀義信の長男)を襲撃し源氏方の佐々木秀義(佐々木高綱らの父)らを討ち取るが敗北。再び潜伏するが翌年の平家滅亡後に志摩で捕らえられて京で処刑された(第一次 三日平氏の乱)。


親族

  • 藤原景綱(?~?):父。古市の伊藤武者と称した。保元・平治の乱では息子たちを率いて活躍。
  • 藤原景家(?~?):兄。受領名は飛騨守。「平家物語」では以仁王を自ら討ったとされる勇将。倶利伽羅峠の戦い以降の動向は不明。
  • 藤原忠直(?~1156年):弟。景綱の六男。通称は伊藤六。上述の通り、父や兄と共に戦った保元の乱で戦死。
  • 藤原忠綱(?~1183年):長男。名は忠経とも。通称は上総大夫判官。父と同じく平家の有力家人であったが倶利伽羅峠の戦いで戦死した。
  • 藤原忠光(?~1192年):五男。通称は上総五郎兵衛。平家滅亡後、壇ノ浦から脱出し鎌倉に潜伏して頼朝暗殺を謀るも失敗に終わり殺害された。
  • 藤原景清(?~1196年?):七男。通称は上総七郎または悪七兵衛。リンク先を参照。
  • 藤原景高(?~1183):甥。景家の長男。通称は飛騨太郎。倶利伽羅峠の戦いで戦死。
  • 若菜盛高(?~1204年):孫。忠光の子。祖父同様、伊賀・伊勢で乱を引き起こすが平賀朝雅(大内惟義の弟)に討たれた(第二次 三日平氏の乱)。

関連タグ

平安時代 武士

日本史

藤本隆宏…2012年NHK大河ドラマ平清盛」で忠清を演じた。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました