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CV:黒木華(幼少期)/宮野真守(青年期)

概要

バケモノの街・『渋天街』の長・宗師の次期候補の一人・猪王山の長男。年齢は九太より一つ年上。弟に二郎丸がいる。

名前の「彦」の字は、才徳に優れた男性に対する美称である意味合いがあり、更に彼が長男であることもあると思われるが、「一」という字は常に一番の存在であって欲しいという願望が込められていると考えられる。弟がそうした願望を込められていない厄除けのネーミングであることを推察すると、猪王山の跡取り息子の立場にあることが伺える

故に幼い頃から文武両道に秀でリーダーシップも高く、二郎丸が九太をいじめていた際も「力は見せびらかすためにあるんじゃない、優しさのためにあるといつも父上が言っているだろう!?」と叱りつけ咎めるといった父の日頃からの教えを守り抜く姿勢を見せ、青年に成長するとバケモノ界でも一握りの者しか受けることの出来ない高等教育を受講するなど、その様は絵に描いたような優等生である。

しかしそれは幾つになっても親離れが出来ず自主性が身に付いていないとも言え、青年に成長すると自尊心が芽生えたことで育ての親である熊徹に頼らず積極的に自律的な行動をして自らの知らない分野を学んで自主性を身に付けていく九太とは対照的である(また人間界のとある人物は家庭環境と社会的ステータスの面で彼と共通した境遇を持つが、九太と同じく親から自律を図る姿勢を見せている)。

またどういうわけか猪王山と同じ次期宗師候補者の熊徹やその弟子である九太を一際嫌悪しており、彼らの街での支持の声が高まって尚、内心二人を「半端者」、「ひ弱な奴」と蔑んでいた。更に次期宗師を決定する闘技試合が間近に迫った際には、自宅を訪れていた九太を見送りの名目で人目の着かぬ場所に誘い込むと、なんの前触れもなく突然逆上して「何が!!いい試合だ!?ふざけるな!!人間のお前や!!熊徹みたいな半端者は!!半端者らしく!!分をわきまえろ!!!」と彼に暴言を吐きながら暴行するという狂気の沙汰としか言いようのない蛮行に出た。このことから、彼の熊徹と九太に対する嫌悪感は常軌を逸していると見られる。

青年に成長すると口元をマフラーで覆うようになっており、本人はこれを大火傷を負ったためと周囲に言いふらしている。

関連タグ

バケモノの子 細田守 九太 猪王山 二郎丸

九一…九太とのBLカップリング

※以下、この人物に関するネタバレ注意

突然の凶行とその衝撃的な正体

「人間のくせに…!」

迎えた次期宗師を決める闘技試合の当日、猪王山を見守るために家族や他の弟子たちと共に試合が行われる会場に訪れる。

そして試合が始まると、当初こそ猪王山は熊徹の猛攻に押され気味だったが、やがて隙を突いて反撃に転じて熊徹を圧倒し、しまいには熊徹からダウンを奪う。

それを見て猪王山の勝利を確信する一郎彦であったが、その時会場から凄まじい怒鳴り声が響く。声のした方向に目を向けると、そこには喝破という名の激励で熊徹の背中を押す九太の姿があった。

九太の一喝によって息を吹き返した熊徹は、全身傷だらけでありながらも立ち上がり、果敢に猪王山に攻め入る。

激しい熱戦を繰り広げる両者だが、それでも猪王山の絶対的勝利を信じて疑わない一郎彦。しかし彼のその思いも虚しく、熊徹の放った渾身の右ストレートによって猪王山はダウン、そのまま立ち上がることはなく、次期宗師は熊徹に決定したのだった。

次期宗師に決定した熊徹を盛大に歓迎する観客たち。猪王山との決闘に勝利した熊徹と九太はいつものように喧嘩口を叩きながらも歓び握手を交わし、それまでの宗師と闘いに敗れた猪王山はそれを温かい目で見つめる。

しかしその時、熊徹の身体に突然何が突き刺さる。それは鞘の抜かれた猪王山の剣であった。一同が剣の飛んできた方向を見ると、そこには謎の力を源にした念動力で剣を操る一郎彦の姿がーーー。

「アハハハハハハハハハハハ!!!父上、私の念動力と父上の剣で勝負をつけました、あなたの勝ちです!熊徹みたいな半端者に父上が負けるわけがありませんからね!!!」

そう彼が高笑いを浮かべると同時にそれまで一郎彦の口元を覆っていたマフラーが外れ、その素顔が露わになった。

その顔は、猪王山や二郎丸のような長い鼻や牙のない、紛れもない人間の顔そのものだったのである。

そして熊徹に深手を負わせた一郎彦は、闇に呑み込まれるかの如くその場から姿を消してしまった。

一郎彦の素性は事態が一旦落ち着いたところで、猪王山の口から語られることになる。

実は一郎彦は猪王山の実子ではなく、その正体は九太同様、バケモノによって拾われ育てられた人間の子供である。

人間である彼が、バケモノである猪王山に育てられることになった経緯は、赤ん坊の頃、実の親によって一人置き去りにされていたところを人間界を徘徊していた猪王山がその泣き声を耳にし、人目につかぬ路地裏でそれを見つけると、猪王山は幼子の泣き声を聞き取る者のいない人間界ではこの子は生き抜くことができないと悟り、自らの子として育てることを決意する。

しかしバケモノ界では一般的に対を成す人間という存在は蔑まれた対象であるために、それによって彼の人生に悪影響が及ぶことを恐れた猪王山はその事実を周囲にも本人にも伏せてきたため、自らの出生に関する事情は知る由もなかった。

だが成長するに従って次第に自身と家族との容姿の違いは浮き彫りとなることになり、それが明確になるにつれその疑問を何度も猪王山に尋ねていたが、その度に彼は「お前は私の息子だ」と説き伏せ続けていた。しかしその行為は一郎彦の猪王山に対する執着心を煽らせ却って不信感と不安を買うことになり、また「半端者」と見下していた熊徹と九太が修行を重ねる度に世間から認められ尊敬する対象にして自らの唯一の心の拠り所である猪王山に肩を並べるようになったことで彼の心の中に存在していた"闇"は次第に増幅されていくのであった。

なお序盤のシーンで九太をいじめる二郎丸の仲裁に入った際に「僕はまだ子供だけどしっかし修行して、いつか父上のような長い鼻と大きな牙の、立派な剣士になるんだ」と発言しているが、これは自らが猪王山の息子であることを必死に肯定しようとする彼の気持ちの表れである可能性がある(終盤の猪王山の回想シーンで明らかになるが、彼はこの時点から自身の正体に感付きつつあった)。九太を「ひ弱な奴」と見なしていたのも、人間の彼を否定することによって自身は人間ではないと自己暗示を掛けようとしていたことが伺える。

口元をマフラーで隠していたのも、家族とは全く似つかぬ自らのその容姿を隠すためである。

そして上記の闘技試合で、尊敬する父・猪王山が半端者の熊徹に敗北するという自らが最も恐れていた事態が訪れたことをトリガーに、彼が溜め込んでいた心の闇が暴発することになってしまった。

皮肉にも、猪王山、引いては宗師として必要とされる周囲を思いやる姿勢と器の広さ、慈悲深さといった徳の高さが裏目に出てしまった結果であると言える。

それを訊いた九太は、彼を闇から救い出せるのは同じ人間である自分しかいないと悟り、彼と闘うことを決意。

九太が自分の本(白鯨)をに預けるために人間界へ向かうと、それを追って自らも憎悪の対象の一つである人間界へ赴く。

そして渋谷のセンター街で九太を見つけると、周囲に無関係な人間が沢山いるのも御構いなしに彼に襲いかかり、それに応戦した九太と激しい斬り合いを繰り広げる。彼との交戦の末自らの闇の力を増強させた一郎彦は、それで九太を一時撤退させ、周囲の民衆らも彼の異様さに恐れおののき一目散にその場から逃走する(余談だが、この時の彼の顔は本来の端正な顔立ちからは想像もつかないほど怪物染みた形相をしている。その光景は一周回って非常にシュールであり観客にシリアスな笑いを誘う)。

誰もいなくなったセンター街に一人佇んでいると、楓が落とした白鯨をふと発見し、それを拾い上げ本を開くとその中から「鯨」という文字を目にする。すると一郎彦は自らの姿を巨大なクジラに変貌させ、渋谷の街中を暴走し、街を大混乱へと陥れる。

その姿は、「マッコウクジラに猪の牙が生えた」という一郎彦のコンプレックスが反映されたものであった。

自らの闇を暴発させ、人間界とバケモノ界、両世界を危機に陥れる一郎彦。

そして九太が彼との決着の舞台として選んだ代々木体育館で再び九太と対峙すると、彼に再度襲いかかるが、その時二人の間に付喪神に転生した熊徹が現れ、その神々しさによって叫び声を挙げながらその場から弾き飛ばされる。

体勢を立て直すと、今度こそ九太を抹殺するために彼に襲いかかるが、クジラが出現する直前に彼の本体が一瞬姿を現わすという弱点を突かれ、熊徹と一体化した九太の渾身の一振りによって彼の胸にある闇を切り裂かれる。

そしてクジラは大空に舞い上がり、もがき苦しみ大きな断末魔を挙げながら消滅し、晴れて彼は闇から解放されたのであった。

翌朝、彼が目を覚ますとそばには自らの介抱疲れによって一緒に眠っていた家族の姿があった。そして彼がふと右の手首に目をやると、見覚えのない赤い紐が結び付けられていることに気づく。それは九太が彼の闇を祓った際に密かに一郎彦に付けた楓のお守りだった。

騒動が鎮まった後、今後彼がバケモノ界に身を留めて良いか否かを決定するために渋天街の元老院にて会議が行われる。本来であれば、人間である一郎彦はバケモノ界にはいてはならない存在である上に世界を滅亡の危機に晒したことから追放される可能性もあったが、同じく人間である九太が自らの「闇」を克服し困難を乗り切ったという功績からそれは見送られ、改めて猪王山の息子として家族と共に再出発するのであった。

熊徹と九太の成長と絆は、自らの弱さに抗いきれなかった猪王山・一郎彦親子にも希望を見出させたのである

総評

彼は自らの弱さや至らなさといったコンプレックスを他者との信頼関係で補い合った九太や熊徹らのアンチテーゼとして位置付けられたキャラクターであると言える。

一郎彦自身、同じくバケモノ社会で生きる人間である九太や物心ついた頃より実の家族と過ごしたことのない熊徹、そして人間だと知って尚も彼のことを自らの兄と慕い続けた二郎丸に秘密と悩みを告白していれば、彼らは一郎彦の良き理解者となってくれたであろうことは想像するまでもない。

彼がそういう行動に出なかったのは、恐らく名家の後継人としての立場上3人に自らのそうした側面を見せることに抵抗を感じていたと思われる。しかしそれは裏を返せば彼らを自分よりも取るに足らぬ存在と見なし信頼していないとも言える。実際終始九太と熊徹を「ひ弱な奴」、「半端者」と侮辱していた他、二人を真っ当に評価し称える二郎丸の意見も密かに蔑ろにしていた。

詰まるところ、一郎彦は自らのステータスに執着する余り、そこから生ずるプライドから自身の人間という個性を受け入れられず、故に自らの至らなさと弱さに向き合う勇気と強さも持てなかったと言える。

そして終いには次期宗師を決する神聖の場で熊徹に重傷を負わせ彼を死へ追いやろうとし、そのことで九太の恨みを買わせる愚行に出て、それにより猪王山の名誉に泥を塗り二郎丸といった大切な家族を社会的に失落させてしまう危機に陥れた。皮肉にも彼は自らが救われる可能性を自分自身の手で潰そうとしてしまったのである

猪王山が敗北しても、卯月や審判長といった試合の権限を有する者に意義を申し立てていれば勝敗を覆らせることは出来たかも知れないし、そもそも熊徹を刺したところで試合の結果が変わることはないばかりか「熊徹が死ななければ猪王山は宗師になれない」ということを証明しており余計に彼の敗北を決定付けてしまっているだけでなく、大衆の面前で他者を傷つける為に堂々と自身の能力を使っていることから猪王山が日頃より彼と二郎丸に説いていた「力は見せびらかすのではなく優しさのためにある」という教えに完全に反している。

そのため終盤の凶行は、猪王山を始めとする身辺者たちへの恩を仇で返す愚挙に他ならなかったのである。

ネット上では「猪王山の社会的評価が裏目に出た」、「熊徹、九太と違い猪王山と真に向き合えなかった」などといった要因から一郎彦に同情する鑑賞者はいるが、上記のようにその気になればいつでも闇を克服できるチャンスはふんだんにあったため、決してその見方が正しいとは言い切れない。

更に家庭環境の側面では楓と類似しており、故に彼は彼女とも対比されていると言える。楓は学に乏しい九太を蔑まず彼が学習の意思表示をすれば快く承諾し、親からの自律も決意していたなど、一郎彦にはなかった意志の強さが表れている。

以上のことから、彼を擁護できる根拠と同情の余地は一切ないと断言出来る。

散々九太と熊徹を「ひ弱な奴」、「半端者」と侮辱していた彼だが、二人はそれぞれ自らを「ひ弱な人間」、「半端者の馬鹿野郎」と卑下し受け入れたことから、そうした自らの弱さ、至らなさ、不甲斐なさを受け入れられない挙句取り返しのつかぬ過ちを犯した一郎彦こそが本作最大の「ひ弱な半端者」だったのである

一方で情状酌量の余地が皆無というわけでも決してなく、幼い頃から猪王山を見倣って文武両道に励み周囲の見本になる存在になろうと努めていたことも事実である。

だからこそ闇に堕ちて尚九太と熊徹は自分の問題として救済に動き、二郎丸からは相変わらず慕われ続けていたのであろう。卯月と議員たちの判断は、そうしたところも踏まえられたと考えられる。また仮に追放処分にしてしまった場合、人間界では身寄りがなくバケモノ界に戻ることも許されないことから再び闇を宿して今度こそ本当に誰の手にも負えない事態に発展してまうリスクもあった。

これらの要素を成り立たせるには他でもなく猪王山の存在が不可欠であったことかは、ある意味では彼もまた親子の絆で闇を乗り越えられた人間であると言えるだろう。

尚、細田監督の過去のオリジナルアニメ映画作品での悪役に位置するキャラクターは、不良いじめっ子といったモブキャラ程度の小悪党人為的に創られた明確な意思や感情を持たない存在であり、人間的な弱さから悪に堕ち、尚且つ元々は主人公サイドだった敵キャラクターは彼が初である。

過去作のキャラクターたちとの比較

細田監督の過去のオリジナルアニメーション映画作品で一郎彦と類似した境遇を辿った人物として、『サマーウォーズ』の陣内侘助が挙げられる。

彼もまた秀才ではあるが複雑な出生がコンプレックスとなって自身を育てた恩人から離反し、後に世界を危機に陥れる災厄を生み出した元凶となるも、周囲の者たちの活躍によって改心するという、正に一郎彦を彷彿とさせるキャラクター性をしている。ただし侘助は最終盤で上記の者たちと共に災厄を打ち払っているなど、一郎彦とは相違した点もある。

他にも、前作の『おおかみこどもの雨と雪』の主役格であるは、自分らの正体から周囲には隠し通すよう言い付けられていたという共通点がある。しかし二人は闇堕ちせず、それぞれで自らの在り方を見出している。

以上のことから、一郎彦は侘助、雪、雨のキャラクター性を本作に流用した人物であると同時に、己の在り方を見出せず完全に闇堕ちした3人のIFの姿であると言える。

『付喪神絵巻』に於ける付喪神との共通点

彼の劇中での動向や境遇を踏まえると、付喪神の伝承を記した絵巻である『付喪神絵巻』に登場する付喪神たちと結構共通している。

絵巻に於ける付喪神たちは、元は物品であるが人間たちに棄てられた怨念から怪異と化し、人間に対し災いを成すという凶行を働いた。しかしそこに「護法童子」と「尊勝陀羅尼」という二柱の神が現れこれを成敗し、以降付喪神たちは自らの行いを悔い改め、仏教に帰依し成仏したという。

これからも伺える通り、付喪神の伝承は人間に捨てられ、それによって宿された闇=怨念によって凶行を働いた一郎彦と合致している。また「護法童子」と「尊勝陀羅尼」は、九太と熊徹に当てはまると言える。

また元は災いの存在であった付喪神(熊徹)に闇を取り祓われるというシチュエーションも印象深い。

関連イラスト

一郎彦の編集履歴2021/03/01 16:17:24 版