日本社会党(社会党)時代
第二次世界大戦直後の1945年に非共産党系の合法社会主義勢力が集まって「日本社会党」を結成したのが始まり。英語名称は「Social Democratic Party of Japan」、略して「SDPJ」。
当初から「右派」と「左派」の2派閥に分かれており、1947年の衆議院選挙では第1党となって片山哲内閣を発足させたものの、党内対立はやまずこの政権はおよそ1年で終了。日本民主党総裁芦田均が総理大臣になり、社会党は連立与党として政権を組んだものの、7か月で総辞職し、以降の吉田茂政権以降は1990年代まで野党となる(吉田政権以降は保守政権)。吉田政権時代、1950年の「サンフランシスコ講和条約」を機に対立が激化。しかし保守党が計画した改憲法案に対し、必要な2/3議席獲得を阻止を目指そうとしたのをきっかけに1955年に右派と左派が統一。以降は自由民主党(自民党)との「55年体制」が確立する。
これ以降も党の内紛は続き、1960年には西尾末広、片山哲、水谷長三郎ら右派の議員が離党し「民主社会党」(⇒民社党)を結成。また、書記長を経験したことのあった江田三郎が1977年に離党し周辺の議員と「社会民主連合」を結成している。
1980年代に入ると、飛鳥田一雄委員長のもと、政党路線を「中道政党」路線へ転身。1986年には土井たか子が(小政党を除いて)日本最初の女性党首(委員長)になると、土井ブームの盛り上がりによって1989年の参議院選挙で躍進することが出来た(参議院では改選議席で自民党を上回った)。
1993年の衆議院選挙では改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させたものの、非自民・非共産の細川護煕連立内閣が発足し、連立与党となった。しかし1994年4月発足の羽田孜内閣では与党各派の統一会派結成に反発して連立を離脱。1994年6月に羽田孜内閣総辞職に伴い、当時の委員長、村山富市を首班として自民党・新党さきがけ・社会党3党による村山富市連立内閣が発足して与党に復帰した。
村山内閣の時に「自衛隊、日米安保条約、日の丸、君が代」を社会党として初めて容認し、旧来の党路線を大きく転換した結果、社会党の求心力は低下し、路線転換などによる政界再編への対応のため1996年の村山内閣総辞職後に「社会民主党」(社民党)に党名を変更。「日本社会党」の名称は消滅した。この時、旧来の社会党の党是の維持と村山路線からの決別を表明した勢力が分離し、「新社会党」が設立された。国会に議席を有さなくなって久しいが、現在も全国の一部に新社会党の地方議員・また党友たる議員がごく少数であるが残存している。
社会民主党(Social Democratic Party)
「55年体制」の最大野党勢力であった日本社会党を前身とした政党で、先述の通り1996年に党名を「社会民主党(社民党)」に改称した。1996年までの日本社会党時代は「社会主義の確立」を提唱、それ以降は「社会民主主義政党」を提唱している。社民党に改称後、社民党所属国会議員のほとんどは、民主党(日本)の結成に参加し離党者が相次いだため少数政党となった。
党勢は少数のまま推移し、社会党時代後期の「土井ブーム」で集めた「市民派」の支持も徐々に離れていく。特に2003年に民主党が当時の自由党と合併したことで野党第1党としての勢力を増し、かねてから小沢一郎らが提唱していた保守二大政党制論が実現の運びになった。これにより革新勢力は一気に退潮し、共産党とともに衆参議席数がそれぞれ一桁台に落ち込むこととなる。ただ、この間も共産党は2000人規模の地方議員を抱えており、2010年代に入ると二大政党への批判票を集めて国政でも躍進を遂げる一方、社民党は地方議員も減少の一途をたどっており、党勢が回復することはなかった。
それでも、社民党の地方組織は健在で、大分や沖縄など一部地域では未だ存在感を保っている。国政でも1996年1月から11月までの橋本龍太郎内閣、2009年から2010年までの鳩山由紀夫内閣では連立政権の一部として与党でいた。
2012年の総選挙後は国会議員数は5人にまで減少、2016年の参院選以降は比例区の議席が1議席減ったことで、所属国会議員は4人(衆参各2人ずつ)にまで減少し、以後2つの選挙後も同様に推移している。なお議員数が5人を下回っているものの、直近の選挙(2019年の参院選)において比例得票が2%を超えていたことにより(国会に議席が1席でもある限り)政党要件は当分の間維持される予定。
比例得票が2%を切る場合、その更に次回の選挙では公職選挙法上は政党と扱われなくなり、例えば衆院選の比例区と小選挙区の重複立候補が出来なくなるなどの選挙制限が課される。2014年の総選挙では実際に得票率が2%を割り込み、以後の選挙でも得票率がその前後で推移しているなど、厳しい戦いが続いている。
その後2020年には、民主党の系譜にある立憲民主党との合流を視野に入れた協議が始まった。しかし、党全体での合流に必要な党大会代議員3分の2の合意に基づく解党の決議成立が困難となったため、11月14日の臨時党大会で立憲民主党へ合流を希望する国会議員や地方組織が離党することを容認する決議を決定。党は存続するものの、吉田忠智参院議員、吉川元衆院議員が離党し立憲民主党に入党、合流推進派の地方組織も合流するなど分裂という結果となった。
合流推進派が議論を急いだ背景に、近年の党勢の低迷や得票率の2%すら危うく政党要件を失いかねない危機的な状況があり、有力支持団体である自治労の意向もあったとされる。
分裂後も立憲民主党との統一会派を維持し、合流組も立民内で社会民主フォーラムを立ち上げて残留組との連携を続ける。
所属国会議員
2019年7月の参議院議員選挙には又市征治党首は出馬せず、非議員のまま2020年2月の任期満了まで党首職を務めた。その後は福島が8年ぶりに党首に復帰した。
関連項目
日本の政党 社会民主党 政党 民主党:結党時に大多数が移籍 立憲民主党:一部が合流
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