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鍋島直茂の編集履歴

2011-12-04 22:47:58 バージョン

鍋島直茂

なべしまなおしげ

肥前国(現在の佐賀県)の戦国武将。龍造寺家臣を経て、佐賀藩の祖となった。

概要

生没年1538~1618

 龍造寺家臣であり主君龍造寺隆信の義弟。戦国時代後期の実質的な大名であり、後の肥前藩の基礎を作り上げた名将。彼の子孫で、藩政改革で先進的な軍事技術を導入(有名な兵器アームストロング砲)したことで有名な鍋島直正がいる。

 また化け猫のモチーフである鍋島化け猫騒動でも有名である。



生い立ち

 1538年(天文7年)に佐嘉郡土着の豪族鍋島清房の次男として誕生。清房の主君龍造寺家兼の命令で一時千葉家に養子として預けられる。しかし1545年に家兼の一族ほとんどが小弐氏によって殺害されたことで実家に帰された。



家兼死後、曾孫の隆信が後を継ぎ、彼の生母である慶誾尼(けいぎんに)が清房の継室になったことで隆信と直茂との間に義兄弟の関係が出来た。そのこともあり、隆信から絶大な信頼を受け、そして直茂の活躍もあってか、1559年(永禄2年)に小弐氏を滅ぼした。



1569年(永禄15年)に大友軍が肥前に侵攻してくると、隆信に篭城を進言し、同時に毛利家に領地の挟撃を要請した。翌年の1570年(元亀元年)の[今山の戦い]では、家中が篭城に傾く中、夜襲を進言し、自ら部隊を率いて成功を収め、大友軍は潰走した。この大勝を記念して、鍋島家の家紋を大友家の杏葉へと改めた。



1581年(天正9年)に隆信と謀って柳川城主蒲池鎮漣を殺害し、その一族を虐殺した。その後隆信の命令で柳川城主に任命された。直茂を信頼して筑後の領国経営を委任したが、同時に直茂を疎んじて転封したとも言える。1584年(天正12年)に沖田畷の戦いで隆信が討ち死し、辛くも本国へ帰還した。島津兵士が隆信の首を持参してきても受け取りを断固拒否したという。帰還した後は嫡男の政家を補佐した。その後島津に対して恭順の姿勢を示したため、取り潰されること無く島津家中でもよりよい地位で安堵された。



 秀吉九州征伐が始まるとかねてより秀吉とつながりを持っていた直茂はいち早く秀吉に鞍替えし、九州征伐の先導役を務めた。その甲斐あって秀吉から直茂、子の勝茂らに龍造寺氏とは別の所領を受け取っている。朝鮮出兵では龍造寺家臣団を率いて奮戦した。またそこから捕らえた朝鮮の陶工らに陶磁器を作らせ、特産品を産んだ。現在の唐津焼の始まりである。



 秀吉死後は家康に恭順の意を示したが息子の勝茂が[伏見城]の戦いで西軍に属するという失態を犯したため立場が危うくなった。そこで早急に謝罪の手紙を送り、西軍の立花宗茂の居城柳川城を降伏開城させたことで所領を安堵された。また、九州の諸大名と連携して島津を攻めようと計画していたが、関ヶ原の戦いが1日で終わったため結局無しになった。一連の直茂の活躍もあり、肥前佐嘉35万7000石で安堵された。



 龍造寺政家が病死すると、その子の龍造寺高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、龍造寺高房は直茂を恨んで憤死した。



直茂は子息に相次いで支藩を立藩させるなどしている。ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、藩主の座に就くことはなく、初代藩主は勝茂となった。そのため、直茂は藩祖と称される。



人物評

秀吉に「知恵と大器はあるが大気がない」と評されている。大気とは野望という意味であり、意訳すれば「強いんだけど自重気味」ということ。

隆信とセットで「龍造寺の仁王門」といわれるくらい仲が良かったが、色に溺れていく隆信を諫言したため、次第に仲が悪くなった。

太閤時代、天下の三陪臣として小早川隆景直江兼続と並んで評された。



関連タグ

戦国時代 龍造寺隆信 佐賀 小早川隆景 立花宗茂 江里口信常 龍造寺四天王 化け猫

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