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宇喜多秀家の編集履歴

2021-09-27 16:32:22 バージョン

宇喜多秀家

うきたひでいえ

宇喜多秀家とは、中国地方の戦国武将。謀将として名高い宇喜多直家の嫡子で、後に豊臣秀吉の元で寵愛を受け、豊臣政権における「五大老」の一人ともなったが、関ヶ原合戦では西軍に属し敗北。領土を没収され八丈島に流刑となった。(1572年-1655年)

概要

生年:元亀3年(1572年)

没年:明暦元年11月20日(1655年12月17日)


備前岡山城城主・宇喜多直家の長男。幼名・八郎。また初名として家氏を名乗っており、秀家の名乗りは豊臣秀吉より偏諱を受けてからのものである。

所謂外様の大名ではあったものの、秀吉の養女を正室として一門衆に列せられた他、後には五大老の一人にも任じられるなど、幼少期より秀吉の多大な寵愛を受け、政権内で枢要な立場を占める事となった。


一方で、国政においてはその立場を背景にした中央集権化の推進や、それに伴う苛烈な検地、さらには秀家自身のキリスト教への傾倒なども巡り、戸川氏や岡氏などといった先代以来の重臣らとの間で対立が発生。結果としてこれが家中を二分する騒動にまで発展したのみならず、騒動終息後に重臣や一門衆の多くが家中を去っていった事により、宇喜多氏の軍事面・政治面での弱体化にも繋がる事となった。


生涯

前半生

秀吉からは彼が織田信長の家臣であった頃より目をかけられていたとされ、天正9年(1581年)に父の直家が病没すると、秀吉の斡旋によってその遺領を相続する事を信長から許されている。さらに翌年の備中高松城攻めの講和後には、備前・美作・備中三カ国の57万石を秀吉より安堵された。この頃はまだ若年であった事から、叔父の宇喜多忠家や先代以来の重臣(戸川秀安、長船貞親、岡利勝など)が秀家を補佐する体制が取られた。


その後も秀吉からの寵愛ぶりが揺らぐ事はなく、小牧・長久手の戦いや紀州・四国・九州の平定など、豊臣政権下での主要な軍事行動にも参加し数々の戦功を上げており、天正16年(1588年)には秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫を正室に迎え、秀吉の一門衆に列せられることとなった。

文禄年間に入り、朝鮮出兵が開始されると秀家も大将として渡海、ここでも碧蹄館の戦いなどで活躍し、文禄3年(1594年)にはその功績に報いる形で権中納言に昇叙。その後の慶長の役でも左軍の総帥を務めるなど、引き続き遠征軍の中枢を担った。

朝鮮より帰国後の慶長3年(1598年)には、まだ20代後半の身でありながら「五大老」に列せられる等、秀吉存命の間における秀家に対する異例なまでの厚遇ぶりは、同じく養子でありながらも切腹を強要された豊臣秀次や、厄介払いに近い形で別の養子に出された上に後の朝鮮出兵でも言い掛かりをつけられて減俸された小早川秀秋とは全くの対照的であったとさえ言えよう。


宇喜多騒動

このように武将として多大な実績を残し、豊臣政権下で盤石の地位を確立した反面、政治面においては父・直家とは異なりかなりの問題があったようで、この事がやがて自身の足元を揺るがす事態にまで発展する事となる。


前述した通り、領国経営においては幼少期より秀家を支えていた重臣らが、その成長後も引き続き交代で国政を執るという体制が長きに亘って続いていたが、やがて長船紀伊守(綱直)や中村次郎兵衛(家正、元前田氏家臣)など、新参の家臣に対して秀家が重きを置くようになり、さらには秀吉の後援の元行われた家中の統制や中央集権の強化、それに太閤検地の推進(※)などを通して、相対的に立場を弱められた旧来の重臣らの間で、次第に秀家に対する不満や反感が醸成されていった。

また宗教の面でも、元来日蓮宗徒の多い家臣団に対し、妻がキリシタンであった事から改宗を強要したとされ、この事も家中の分断の要因の一つとなったと見られる。

(※ 太閤検地に関しては、単に豊臣政権による全国支配の推進の一環というだけでなく、鷹狩や猿楽など秀吉と同様に奢侈を好んだ秀家のツケを、検地による税収向上にて補おうとしたという側面もあったと伝わる)


文禄3年(1594年)、前年に没した岡家利の後を継いで国政を担っていた戸川達安を執政の座から解き、新たに長船綱直や中村家正を国政の最高責任者に据えた。翌年、傾き者で知られた重臣・花房職秀が秀家に対して綱直を重用することを諫言したことで秀家の怒りを買い殺されそうになってしまい宇喜多家を去る。

これ以降、宇喜多家中での不満・対立の鬱積は、秀家の頼みの綱であった秀吉の薨去や、石田三成ら奉行衆の失権に伴い秀家の権力が後退するに至って、いよいよ本格的に噴出していく。

綱直が慶長4年(1599年)が死去してからは前出の家正の専横がひどくなり達安や岡貞綱(家利の子)ら有力な重臣らが彼への処分を秀家に迫った。しかしこの要求に対し、秀家は拒否するばかりか逆に達安の謀殺を企てるという、旧来の家臣や一族に対する仕打ちとは思えない程の信じられない暴挙に及ぶ。これまでの不満を爆発させた達安や貞綱らは予てから秀家と折り合いが悪かった従兄弟の宇喜多詮家(坂崎出羽守)が持つ大坂玉造の屋敷に立てこもるに至った。所謂「宇喜多騒動」の勃発である。

事態の重さを受け、大谷吉継榊原康政(徳川家臣)が当初両者の調停に当たるも、各々の事情から吉継・康政の両名ともこの一件から手を引かざるを得なくなった結果、家康自らが調停に乗り出すに至ってようやく、翌慶長5年(1600年)にひとまず騒動は終息。達安・貞綱・詮家らは他家にて預かり・蟄居という処分が命じられた。しかしその後も同年5月頃まで秀家と重臣らの対立はなおも続いた。


どうにか内乱という最悪の事態こそ回避できたものの、このお家騒動を通して先代からの有力な重臣である花房職秀・戸川達安・岡貞綱・花房正成・角南如慶らを始め、秀家の信任厚かった中村家正ら直属の奉行人までも家中を去る羽目になるなど、宇喜多氏は軍事・政治両面において著しい人材不足に陥る事となった。

騒動後の領国経営は、中立派として家中に残留した客将の明石全登に委ねられ、上方を中心に人材の登用に務めるなど傾いた支配体制の立て直しに腐心する事となるが、この時宇喜多氏を取り巻く情勢は既に抜き差しならぬものとなっていたのである。


関ヶ原の戦い

宇喜多騒動の発生する前より、秀家は豊臣政権内での派閥抗争において、岳父の前田利家らと協調姿勢を取っており、さらに利家の死後発生した石田三成襲撃事件の際には、佐竹義宣と共にその救出に一役買っているなど、元々同じ五大老である家康との関係は微妙なものがあった。

加えて、先の御家騒動で家中より退去した戸川・岡らが彼らに感銘した家康の下で家臣になったこともあり家康に対する不信や反感を募らせていったものと見られる。

家康が如何なる思惑でこのような措置に及んだか、今もなお史料は黙して語らないが、いずれにせよかつて自分の重臣だった戸川・岡・両花房らを自陣営に取り込みにかかるかのような家康の姿勢は、その思惑の如何を問わず秀家にとっては面白からざるものがあったと見る外なく、この事も西軍への与同に繋がった要因の一つと考えられる。

ただ、元を正せば自らの身勝手なやり方が招いた結果に過ぎない為、自業自得や家康に対する逆恨みと見なされる事も少なくないのは、痛い所である。


その後慶長5年7月に、失脚した三成ら奉行衆が打倒家康を期して挙兵するに至り、秀家は予てからの秀吉への恩義などからこれに加担。西軍の副大将として伏見城や伊勢長島城の攻略に当たるなど、三成らと共にその主力を担う事となる。

しかし、前述の御家騒動による軍事力の低下は、明石による人材登用をもってしても如何ともし難いものがあり、また騒動への加担から従軍を認められなかった家臣もいるなど、最早往時のような力を発揮できる状況にはなかった。

それでも関ヶ原本戦においては、西軍最多となる1万7000の軍勢を擁して出陣し、東軍福島正則隊を相手に激戦を展開するが、最終的には家康と通じていた小早川秀秋による、大谷吉継隊への攻撃の煽りを食らい、宇喜多隊も含めた西軍も総崩れとなった。


戦後、秀家は伊吹山中にて落ち武者狩りの矢野五右衛門の元に匿われ、さらに太秦への潜伏を経て、同じ西軍の島津義弘を頼って薩摩に逃れ、しばらくの間牛根郷にて島津氏の庇護を受ける事となる。この間に剃髪し休復と号したとされ、またあくまで伝説の域を出ないものの島津氏から兵を借りて琉球を支配しようとした、との話も残されている。

しかし島津氏による秀家の庇護は次第に噂として広まるようになり、匿いきれないと判断した島津氏は家康の元へと秀家の身柄を引き渡す。時に慶長8年(1603年)、関ヶ原本戦より既に3年が経ち、戦後の論功行賞で宇喜多氏も取り潰しとなった後での事だった。


流人として

引き渡しの後、島津氏や縁戚関係にあった前田氏からの嘆願で死罪を免れ、始め駿河久能山、次いで嫡子・孫九郎らと共に八丈島へと配流の身となった。当地では姓を浮田、号を久福と改めている。

八丈島での流人生活は不自由であったとされ、当地の代官におにぎりを馳走してもらったり、偶然八丈島に避難していた福島氏の家臣に酒を恵んでもらった、などといった逸話も残されている。他方で元々の高い身分から、他の流人よりも厚遇されていたとも見られており、実際に妻の実家である前田氏や、かつて宇喜多騒動で家中より退去しながらも宇喜多氏再興に尽力していた花房正成からも少なからぬ援助を受けていた事も明らかにされている。元和2年(1616年)には秀家に対する刑も解かれ、この時前田氏から10万石の分知と、大名への復帰を勧められたともいわれるが、秀家はこれを断ってその後も八丈島に留まった。

こうして50年にも亘る八丈島での暮らしの末、明暦元年(1655年)の末に84年の生涯に幕を下ろした。当時は既に江戸幕府も4代将軍・家綱の治世に入っており、関ヶ原の当事者としてこの時点まで生存していたのは秀家のみであった。


秀家の子孫はその後も八丈島にて命脈を保ち、明治以降は前田氏の庇護の元で東京に移り住んだが、そのうちの一部は八丈島に戻り、現在でもその子孫が秀家の墓を守り続けている。


創作物での宇喜多秀家

ドラマなど

劇中では、養父の秀吉や豊臣家への忠誠心が極めて熱い熱血漢として描かれ、「太閤殿下に死ねと命じられたら、喜んで命を捧げる」と言い切るほど。


采配のゆくえ

名門故のプライドが高く、居丈高な性格。


信長の野望

直家死後の宇喜多家当主として登場。若すぎたせいか、他の五大老に比べていまいちパッとしない能力値に設定されている(毛利輝元よりはマシだが)。家臣は小粒揃いではあるが、突出した能力を持つ者はおらず、周囲の勢力も既に固まってしまっているため結構上級者向け。


2ちゃんねる

「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!


の名フレーズでお馴染のネタ。

戦国時代板の大坂の陣総合スレ発祥の長文コピペ。

「あの時秀家がいれば勝っていた」という発言に「あの時秀家は八丈島だよ」「八丈島から泳げってのかw」という至極まっとうなやりとりの後投下された長文にスレ住民が大爆笑。

その後八丈島から秀家が泳いで大坂城に入れば大坂の陣を勝てていたというコンセプトでたてられた

「泳 げ よ 宇 喜 多 秀 家」スレッドでも、この長文が貼られた事で再評価される。

しまいにはアンサイクロペディアにまで書かれる始末で、もはや「宇喜多秀家といえばコレ」と言わんばかりの鉄板ネタと化した。


戦国大戦

うきた ひでいえ 。

Ver2.0「1582 日輪、本能寺より出ずる」より、豊臣家の武将として参戦。

直家が亡くなり家督を継いだ直後で、豊臣秀吉に仕えることになって間もないころの姿で描かれている。


スペックは、コスト1.5、武力5/統率5の槍足軽で、特技は「豊国」。

素のスペックはさほど目立っていないが、計略は利便性が高い。

その持ち計略「日輪の大車輪」は、使った日輪の仕様数に応じて武力と槍を延伸しつつ、更にオートで行われる車輪槍撃の間隔も短くなっていく。


「俺が父ちゃんを

    勝たせてやっからな!」



戦国武将姫MURAMASA

7月から暑さ全開!

金髪ツインテタレ目ロリっ娘で、八丈島に流された後の、日焼け跡が眩しいビキニ姿で登場する。一人称は「宇喜多」で、性格は頑張り屋さん。

八丈島を開発するイベント「宇喜多の夏日記」で主役を務めた。嵐が来てせっかく掘った井戸が埋まっても、建てた小屋が飛ばされても、釣り用のイカダが流されても、何度でも諦めずに頑張り続ける姿がプレイヤー達の心を打った。一方で公式twitterでは豪姫に会えない寂しさに一人泣く姿が呟かれており、そのいじらしさに輪が掛かっている。

その後のイベント「宇喜多の夏日記2」では小早川秀秋の謝罪を受け入れて和解したようだが、時期的に宇喜多が八丈島に居る時点で秀秋は既に・・・

また、「島流し」と称される多重アクセスプレイヤーに対する一時アクセス停止ペナルティーの画面にも登場し、「宇喜多と一緒に船を待とうね!!」と呼びかけてくる。因みにプレイヤーの流された先も八丈島である。多重アクセスに対するペナルティーと言うといかにも仰々しいが、サーバーの調子が悪いとクエストやイベントで進むボタンを普通に押しているだけで流してくる事もあるので割と簡単に見ることができる。覚えの無い島流しに憤慨するプレイヤーも覚えのある島流しに恐縮するプレイヤーも癒してくれる。

なお、akinatorもこの宇喜多を知っている。



戦国無双

武器:刀剣(4まで) 大太刀(4Empries) 声:山田真一(2) 岡本寛志(3以降)


南西砦で、何事かあったようだな 明石よ、様子を見て参れ!」(3猛将伝:ガラシャ脱出戦より)

秀家の前に立ちはだかるか! たたっ斬る!」(4Empries特殊台詞)


2では父・直家と同じ師将モブグラフィックで唯一の差別点は能力と武器の違いでしか無かったが、3以降は若武者ボイスとなった。


4Empriesでは父・直家と同じく固有のデザインで登場し、武器の変更と3Empriesには無かった特殊台詞が父と揃って追加された。


ラヴヘブン

乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。

異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。好奇心が旺盛で、未知の物と出会うと喜々として接触する。趣味は家臣増やし。

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