概要
ヤマトヒメ(以下倭姫)は、第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は日葉酢媛命。兄弟に五十瓊敷入彦命、景行天皇、大中姫命、稚城瓊入彦命。『日本書紀』では倭姫命、『古事記』では倭比売命と表記される。
第10代崇神天皇は宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂の二柱の神威の強さを畏れて宮の外で祀ることにした。天照大神を託された皇女豊鍬入姫は倭笠縫邑に神籬を立てて祭った。
垂仁天皇の時代、天照大神を豊鍬入姫から離して倭姫に託された。倭姫は天照大神の御杖代として鎮座地を求め笠縫邑を出発、菟田の筱幡、さらに引き返して近江国に入り、美濃を廻って伊勢国に至ると五十鈴川の川上に祠を創建したとされる(「伊勢神宮起源伝承」)。御杖代とは依代として神に仕える者の意味である。倭姫は伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて後の斎宮となった。また倭姫によって伊勢神宮が創建されるまでに八咫鏡が奉斎された場所は元伊勢と呼ばれる。
倭姫は日本武尊の熊襲征討の際は御衣・御裳(女性の衣装)を、東国征討の際には天叢雲剣 (後の草那藝剣)を授けた。
伊勢では倉田山に隣接する間の山の尾上御陵(三重県伊勢市倭町)が倭姫の陵墓であると伝承されてきた。1887年(明治20年)頃より地元住民を中心に倭姫を祀る神社を創立すべきという声が高まると、1923年(大正12年)11月5日に倉田山の一角を開削して倭姫を祭神とする皇大神宮別宮 倭姫宮が創建された。
余談
中国の歴史書『三国志』の「魏書」第30巻の東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)に記されている倭の邪馬台国を統治した女王卑弥呼は倭姫だという説がある。これは、命が神を祀る役目を負っていたことに由来する。
鈴鹿山が神格化された女神鈴鹿姫が古くから祀られていたが、斎王群行が鈴鹿峠を越えるようになると鈴鹿の地に鈴鹿頓宮が設置され斎宮が禊を行う鈴鹿禊の聖地となり、伝説的斎王である倭姫を鈴鹿姫とみなして祀るようになっていった。