織田信勝
おだのぶかつ
生没:天文5年(1536年)? - 永禄元年11月2日(1558年12月11日)
別名:信行(※)、逹成、信成
通称:勘十郎
受領:弾正忠、武蔵守
尾張の戦国武将・織田信秀の三男。
兄に信広(異母兄)・信長(同母兄)が、弟に信包・長益(有楽斎)らがいる。
父・信秀の死後、織田弾正忠家の有力者の一人として台頭、やがて家督継承者である兄・信長に不満を抱く家臣らによって対抗馬として擁立されるも、両者間の対立は信長の勝利という形で決着。その後もなお反抗姿勢を取り続けていた事から、一計を案じた信長によって誅殺されるに至った。
史料上において、信勝の詳細な人となりを伝える記述は限られているものの、美濃の白山社への仏像光背の寄進や、居城である末森城内に加賀の白山比咩神社より分霊を迎える(後の城山八幡宮)など、白山信仰への傾倒を窺わせる事績が複数残されている。また兄・信長と同様に鷹狩にも堪能であり、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだとも伝わっている。
(※ 一般に広く知られる「織田信行」の名乗りは、早くとも江戸期に入ってからの系図などに見られるものであり、同時代の信頼性の高い史料にはその名を確認する事は出来ない。また織田信長や織田氏を語る上で欠かせない『信長公記』においては、一貫して通称の勘十郎として記されている)
生涯
信勝の台頭
父・信秀の晩年より、信勝の生まれた織田弾正忠家による領国支配は信秀と、嫡男で那古野城主の信長による二元体制によって行われていたが、父が病床に伏した天文20年(1551年)頃より、信勝もこれに代わって領国支配に参画する事となる。
当初は同等の地位・権限を有し、連携して領国支配や対外抗争に当たっていた信長・信勝の兄弟であったが、一方で父・信秀の死に伴い弾正忠家当主の居城・末森城を信勝が継承した事、また佐久間盛重・柴田勝家らの重臣が信勝に附けられていた事などから、弾正忠家の内部において相当の権勢を保持していた信勝は、信長にとっては早くから潜在的な脅威であったと見られている。
また常日頃から素行が悪く、「うつけ者」と称される事もあった兄・信長に対し、信勝は品行方正で通っていたとされる。実際、『信長公記』首巻にはこれを裏付けるかのような父・信秀の葬儀にまつわる逸話も残されている他、生母の土田御前が信長よりも信勝の方を可愛がっていたとも伝わっている。
この両者の性格の違いは、後に事件を起こした叔父・織田信次への対処で明確になる。
弘治元年(1555年)、信次が狩りをしていた際、その横を騎乗のまま通り過ぎようとした若武者がいた。家臣の一人がこれを無礼として威嚇の射撃を行ったところ、誤って射殺してしまう。その若武者というのは実は信長、信勝の同母弟・織田秀孝であり、それに気づき驚愕した信次はそのまま出奔してしまう。
これに激怒した信勝は、信次の領する守山城下を焼き払うが、一方の信長は無防備だった秀孝に非があるとして、信次の所業を不問に付した。
この事件を機に、一族の繋がりを重視した信勝の方に家中の期待が集まるようになる。
兄との対立
やがて弾正忠家と競合していた、清須の織田大和守家(守護代家)が信長に滅ぼされ、さらに信長・信勝の叔父・織田信光らの死去により、弾正忠家内における有力者は信長と信勝の二人に絞られる事となった。
家督を継いでいたとはいえ、この当時の信長の立場は依然として不安定なものであり、一方の信勝はこの時期より達成(みちなり)と改名、弾正忠を名乗るようになる(※)など、次第に兄弟間での対立の構図が浮き彫りにされつつあった。
(※ 達成の「達」の字は、大和守家の当主の用いていた名とも共通するものであり、この事から達成への改名は弾正忠の名乗りと併せて、自らが大和守家の代行と弾正忠家の当主の座を担う者である、という意思表明と考える向きもある)
そして弘治2年(1556年)、信長の舅に当たる美濃の斎藤道三が長良川の戦いで討死するに至り、家中では道三という有力な後ろ盾を失った信長を排し、信勝をその後釜に据えんとする動きが表面化。林秀貞・林通具兄弟や柴田勝家ら信勝派の家臣らに擁立される形で、信勝も遂に信長への対立姿勢を鮮明に打ち出す事となる。
しかし同年8月に稲生原にて行われた合戦では、兵数の上でこそ信勝側が優位に立っていたものの、信長側はこの苦境を跳ね返して合戦を制し、林通具ら主だった武将を失った信勝側は敗走を余儀なくされた(稲生の戦い)。
謀殺
敗戦の後、母の取りなしで赦免された信勝は、弾正忠達成から武蔵守信成と名を改めるなど、その勢威を大きく低下させる事となるが、最早兄弟間の溝は到底修復出来るものではなく、その後も表向きは信長へ臣従しつつ、同族の織田信安(岩倉織田氏当主)や美濃の一色義龍(斎藤高政)とも通じて、なおも反攻の機会を窺い続けた。
しかし家臣であるはずの柴田勝家からは、敗戦後の処遇への不満などからこの時既に見切りを付けられており、彼を通して信長にも謀反の企ては露見していた。やがて信長が信勝排除の意思を固め、自らが重病にかかり危篤に陥ったとの風聞を広めると、信勝もこれを受けて見舞いのために清州城へ赴いたが、そこで織田家臣の河尻秀隆・青貝某の手にかかり敢えない最期を遂げた。時に永禄元年11月2日、享年21(異説もあり)。
信勝の死後、遺児の坊丸は許され、後に津田信澄と改名して信長に仕え明智光秀の娘を娶るなど重用された。しかし信澄も、本能寺の変の際に神戸信孝や丹羽長秀に疑われ大坂城で上田重安(宗箇)に討たれ悲劇的な最期を遂げる。なお彼の血筋は江戸幕府の旗本として明治まで命脈を保った。
フィクションでの信勝
よくある扱いとしては、端的に言えば「信長の踏み台その一」。
兄弟で家督を争うという構図自体は、他の大名家でもよくある話だが、信勝の場合は兄の信長があまりにも有名になってしまった上に、「破天荒な兄」と「品行方正な弟」という対照的な対立構造まで出来てしまっているため、山岡荘八の『徳川家康』『織田信長』のように兄の器量を理解できない小利口なだけの小物で身の程知らずの野心家として描かれることが多い。もしくは、昔は信長と仲が良かったが、生き方の違いから険悪となってしまったとされる場合もある。この場合、彼の裏切りと死が信長を非情にしたきっかけとして扱われることが多い。
稀に彼自身も優れた人物であり、兄の器を理解した上で挑んだとされることもある。ただ、同じく信長の踏み台となってしまった今川義元などと違い、若死の上に再評価の材料になるような功績も確認されていないため、彼の扱いは今後もそう変わらないと思われる。
戦国大戦
CV:三澤紗千香
『織田の当主は、私だー!』
品行方正だが神経質な青年。兄の器量が理解できず、また、破天荒な兄のせいで周囲から窮屈な生き方を押し付けられている鬱憤を爆発させ、織田家の当主の座を巡って兄と対立する。
ゲーム的には決して強くはないが、かといって弱くもなく、織田家では数少ない範囲妨害持ちと汎用性は高い。
中性的な外見や声も相まって男の娘扱いされることも。
センゴク
『センゴク外伝 桶狭間戦記』に登場。父信秀の気性を強く受け継ぎ、母土田御前に溺愛されている。単純に品行方正なだけではなく、一廉の武将としての片鱗をのぞかせ、その野心で兄信長を討とうと挙兵する。しかし、味方につけた筈の熱田商人たちに裏切られ、謀反には失敗。その後も抵抗を続けるも、やがて柴田勝家ら重臣にも離反される。自分の敗因となった『銭』について自問するが、遂には母の目の前で兄信長に討たれた。
戦極姫シリーズ
1~2では、織田家シナリオでの再序盤の敵として登場。権力を笠に着て横暴に振るまい、領民や娘の拐かしに人身売買にまで手を出すなどかなり非道で愚かしい人物として描かれている。遂には姉に対して謀反を起こすが、敗れて討たれる。かつては姉をとても慕っていたが、自分より優れた能力を持ちながら遠慮から自分に当主を譲ろうとした事がきっかけで、姉に対する憎しみと強烈なコンプレックスを持つようになったらしい。
3以降は女性キャラに変更されており、既に謀反を起こして許されていたり、その動機が姉の気を惹くためであったり、展開次第では当主になる事もあったり、など大きく設定が異なる。
織田信奈の野望
詳細は織田信勝(織田信奈の野望)を参照。
信長の忍び
前日譚である『尾張統一記』に登場。お市似の美少年である。髪は母・土田御前と同じ小豆色。
幼少期より、「ああいうバカにはなるな」と信長を反面教師とするよう、母や側近から教え込まれていたがために、異常なまでに反骨的な少年に成長してしまう。その結果、はからならずも本作におけるラスボスとなってしまい、最後は恩人である勝家さえも邪魔だと見るや切り捨てるような、兄以上に冷酷な人物に成り果ててしまう。
今際の際には信長を「弟殺しの悪魔として語られ続けろ」と呪いながら息を引き取り、滅多なことで涙など流さない第六天魔王の目に涙を燈した。
Fate/GrandOrder
詳細は織田信勝(Fate)を参照。
信長の野望シリーズ
初期の作品では信行の名で登場したが、基本的に信勝名義の作品が多い。
信長の野望創造では家督争いを再現して独立大名として柴田勝家・林秀貞を従えているシナリオも登場。しかし信勝の能力値は政治と知略は辛うじて並で戦闘面の能力が低いといういまいちな物で難易度は高い。
シリーズ通して見ると戦闘面は常に低く、知略は作品によって低いかやっとこさ並のいずれか、政治は安定して並程度と優秀な人材が多い織田家中では完全に埋没する能力。