概要
通称は陸奥四郎。左衛門尉の官に就いていたことと六条朱雀の屋敷に住んでいたために「六条判官」と呼ばれた。また為義が棟梁だった時期の河内源氏を六条源氏と言ったりすることもある。
通説では源義親の四男とされるが、一説には源義家の四男で義親の弟という説もある。
ちなみに2012年NHK大河ドラマ『平清盛』では前説を2022年の『鎌倉殿の13人』では後説を取っている。
少年期
河内源氏は義家が病死する前に次男の義親が廃嫡され、三男の源義忠が4代目棟梁となった。義忠は伸長著しい伊勢平氏との融和策を取り平正盛の嫡子・平忠盛の烏帽子親になるなど政治力で権勢を高め「栄名第一」と称された。しかし、義忠が継いだことや義忠のやり方に不満を募らせていた叔父の源義光と弟の快誉により暗殺されてしまう。
このため義家の生前に義忠の後継者に決まっていた為義がわずか14歳で河内源氏5代目棟梁となった。為義はのち義光に唆され義光の兄の源義綱一族を義忠殺害の首謀者として滅ぼしてしまっている。のち真犯人が義光と快誉であることが露見し義光は関東へ逃亡し常陸に拠点を構え佐竹氏や武田氏などの祖となった。
青年期~保元の乱前
成人した為義は検非違使に就くが犯人を隠匿したり、自ら争いを起こしたりしたために出世できなかった。ある時、海賊征伐に為義か忠盛のいずれを差し向けるかとの議論が出た際に鳥羽天皇に「為義を差し向ければ西国が壊滅する(意訳)」とまで言われてしまっている。
やらかしの連続で鳥羽院の信頼を失った為義は藤原忠実・藤原頼長父子の世話になり、その手足として働くことになる。もっとも頼長からの評価はさほど高くなく義家が就いていた陸奥守を望んだが頼長に鼻で笑われたと言われている。官位は検非違使のまま出世することが出来ず忠盛の嫡子・平清盛どころか嫡孫・平重盛にさえ遅れを取る。さらに九州に追放していた八男の源為朝が勘当先の九州で大暴れしたために、為義は朝廷の怒りを買い検非違使の官位を解かれてしまった。
長男・源義朝との確執
為義は長男・源義朝を事実上廃嫡し関東に送り、次男・源義賢を嫡子に据えたが不祥事を起こし廃嫡し四男の源頼賢を嫡子に据えていた。ところが義朝が房総平氏の平常澄(上総広常の父)の元で力を付け関東に勢力を伸ばし為義を凌ぐ力を持った。そして官位でも為義を上回り父子はさらに不和になる。為義は義朝を牽制するために義賢を送るがこれが義朝と(当時武蔵守だった)藤原信頼を刺激し義賢は義朝の長男・源義平に討たれてしまった(大蔵合戦)。
保元の乱
鳥羽法皇の没後、崇徳上皇方と後白河天皇方に別れての戦いすなわち「保元の乱」が発生した。
為義は丁度九州から上京していた為朝や頼賢らの息子たちとともに崇徳方で戦うが、義朝が属した後白河方に敗北してしまう。
その後、為義は義朝の助命嘆願も叶わず信西(または後白河帝)の命令もあり頼賢らと共に義朝に処刑された。享年60歳。
ちなみに為義は確執があったとは言え義朝が親不孝の汚名を被ることを最後まで案じていたとされる。