後藤又兵衛とは、室町時代末から安土・桃山時代に活躍した武将、後藤基次のこと。
- 生:永禄三年四月十日(西暦1560年5月5日)
- 没:慶長二十年五月六日?(西暦1615年6月2日)
播磨にて小寺孝高に仕えるも、羽柴秀吉の播州平定戦にて主君、黒田孝高が織田家より離反した荒木村重の説得に向かい、そのまま有岡城に監禁されると、小寺孝高の主君である小寺政職が荒木村重に同調した事もあり、自動的に連座して小寺孝高も逆心を企てたと見られ、同様に後藤基次の父である後藤基国といった後藤一族も多くが播磨にて蜂起した別所長治に随伴した事から、主君も戻らず一族も離反した事より羽柴秀吉陣中で所在が無くなっていた所を黒田家家臣団、纏めてソックリそのまま仙石秀久に召し抱えられる。
以降の動向は史料に乏しく二通りの説が唱えられているが、まだ確たる定説は見ない。
・黒田孝高が有岡城落城と共に救出されると黒田孝高の元に帰参した。
・黒田孝高が有岡城から救出されて後も仙石秀久に仕え、仙石秀久が戸次川の戦いで大敗し改易されると黒田孝高家臣、栗山利安の元に百石の知行で身を寄せた。
数年前までは前者の説が有力であったが、貝原益軒が記した「黒田家臣伝」からどうやら後者の説が正しいと目されてきたのが最近である。
とまれ、史料が出てくる天正十四年以降は動向が明らかになっており、秀吉の九州の役にて降伏した城井鎮房が転封に抵抗し旧領に固執した為、城井鎮房転封後に封じられる予定であった黒田孝高と争った城井谷城での戦いに従軍。朝鮮出兵では文禄の役、慶長の役両戦役に参戦し、文禄の役では第二次晋州城攻防戦にて城壁を抜き加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。
慶長五年、関ヶ原の戦いでは黒田長政に従い、石田三成家臣の勇名轟く槍使い大橋掃部を一騎打ちで討ち取るなど兵として抜群の功績を挙げ、戦後は大隈城(益富城)一万六千石の所領を与えられた。
しかし黒田如水死後、二年が経過すると元々、犬猿の仲であった黒田長政といよいよ仲違いし慶長十一年、一族揃って黒田家を出奔する。黒田長政も黒田長政で奉公構という再就職禁止令を上層部に提出し徹底した基次への追及を行い、その武勇を惜しんで引く手数多ながらも基次は無聊をかこつ事になる。慶長十六年には京都にて浪人生活を送り、爪に火をともす生活を送っている。
その三年後、慶長十九年に大阪にて浪人の募集が始まると基次は是に率先して応じる。後に云う大阪の役であるが、閲兵の折に指揮を任されその見事振りから「摩利支天の再来」とまで称された。大阪城では大野治長と並んで最重要人物の筆頭として数えられていた程である(大阪の役勃発前は、大坂牢人五人衆は高名でなかった)。
大坂夏の陣では先鋒として二千八百の兵を率い、寡兵にて徳川軍先鋒、奥田忠次らを討ち取りながら孤軍でおよそ八時間も奮戦し、敵味方から賞賛された。一般的には霧で後続の明石全登、真田信繁といった諸部隊が到着できなかった為、着陣した小松山にて奮戦の末に討ち死にしたとされるが、実際には各地に生存説が伝えられている。
その武勇から黒田二十四騎、黒田八虎、大坂牢人五人衆、大坂城七将星といった各筆頭に数えられている。
百花繚乱 SAMURAI GIRLSシリーズ
後藤又兵衛
CV.小林ゆう
美少女フィギアを原作とするサムライガールズシリーズのキャラクター。
後藤又兵衛を受け継いだ武應学園塾の女子高生。
反徳川の立場より幸村に付き従っているが、寡黙で余り気が強くないためかパシリに近い扱いを受けることも。
十兵衛と千姫を奪還する際、幸村と共に宗朗の剣姫となる。
普段から制服に褌という格好をしているため下着をはくことを嫌がる。