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後藤又兵衛の編集履歴

2024-07-16 10:02:13 バージョン

後藤又兵衛

ごとうまたべえ

安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将。黒田官兵衛・仙石秀久・黒田長政・豊臣秀頼らに仕えた猛将。大坂夏の陣で討死した。

曖昧さ回避

  1. 百花繚乱サムライガールズ」に登場するキャラ→後藤又兵衛(百花繚乱サムライガールズ)
  2. 戦国BASARA」に登場するキャラ→後藤又兵衛(戦国BASARA)
  3. 100万人の戦国無双」に登場するキャラ。本記事で解説。

プロフィール

  • 生没年:永禄3年4月10日(西暦1560年5月5日)~慶長20年5月6日?(西暦1615年6月2日)
  • 幼名:甚太郎、弥八郎、弥太郎など諸説あり
  • 通称:又兵衛
  • 諱:正親、基次

※又兵衛が幼名という説もあるが、「兵衛(ひょうえ)」とは朝廷の官職名であるためその可能性は低い。また、諱は基次で知られるが本人の書状から「正親」だったことが分かっている。


この当時で身長が約六尺(約180cm)以上はあった巨漢とされる。

肖像画などでは甲冑を身に纏って満月(金色で丸型)の前立てが付いた兜を被っている場合がある。


概要

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて戦場で活躍し、黒田官兵衛を始め仙石秀久黒田長政豊臣秀頼等に仕えている。

その武勇から、黒田家中でも「黒田二十四騎」の一人となっている上に最強の武士に与えられる称号である「黒田八虎」の一人に数えられている。

更に大坂の陣には、大坂牢人五人衆大坂城七将星といった筆頭クラスにも数えられている。

なお、黒田家家臣時代に母里友信の窮地を救う形で虎退治をした功績から、天下三名槍の一つである「天下に二ツの槍(日本号」を所有していたともされている。


戦場で常に一番槍を競う程の好戦的で、「槍の又兵衛」の通称で呼ばれていた程武術に優れていたが、ある程度知略・軍略にも長けていた武将でもある。

大坂の陣以前だけでなく関ヶ原の戦いの時期においても、既に日本でも全国に知れ渡った猛将として名を馳せた存在であったが、そのあまりにも優れた武将としての実力故に自惚れや思い上がりも強く、認めるに値しない者にはたとえ仕えるべき主であったとしても傲岸不遜な態度を平然と取る等、性格面においてかなり問題のある人物でもあった。


又兵衛の問題点においてもっとも大きく挙げられるのが、敬愛していた主である黒田官兵衛の子・長政との関係である。

幼少期はそれなりに仲が良かったらしいのだが、官兵衛が荒木村重によって監禁された期間を経て再会した後は、事ある毎に長政に対して挑発的な態度をとったり嘲笑って見殺しにするも同然の振る舞いをしては彼の勘気に触れ続けている等、執拗なまでに反発していた。

不仲の理由は、豪放磊落な自身に対し長政が生真面目と性格が真逆であったからとされている他、別説では幼少期に両親と死別した自身と違って、恵まれた環境にいる上に官兵衛が謀反の疑いを掛けられて殺されそうになった際も羽柴秀吉竹中半兵衛に匿われる等、周囲から大切にされていた長政に対し強い嫉妬心を抱いていたからとも言われている。


しかし、長政と諍いを起こす度に間を取り持っていた官兵衛が亡くなったのを機に、長政との関係は一気に深刻化。半ば逆上に近い形で一族を連れて出奔するが、それが自らの人生転落の一途へと陥る事になった。


生涯

黒田家家臣時代

播磨国神東郡山田村(現在の兵庫県姫路市)の国人である後藤基国の子として生まれる。

長じてからは播磨国御着城主小寺政職の家老である小寺(黒田)官兵衛に仕え、羽柴秀吉の軍に組み入れられた。


播州平定戦にて主君・官兵衛が織田家より離反した荒木村重の説得に向かうも、そのまま摂津国有岡城に監禁されると、官兵衛の主君である政職も村重に同調した。

このため自動的に連座して官兵衛も逆心を企てたと見られ、同様に父・基国ら後藤一族の多くが村重と同じく織田信長に反旗を翻した東播磨の三木城別所長治に随伴してしまう。主君も戻らず一族も離反した事より羽柴陣中で所在が無くなっていた所を、黒田家家臣団、纏めてソックリそのまま仙石秀久に召し抱えられた。

以降の動向は史料に乏しく二通りの説が唱えられているが、まだ確たる定説は見ない。


  1. 官兵衛が有岡城落城と共に救出されると官兵衛の元に帰参した。
  2. 官兵衛が有岡城から救出されて後も秀久に仕え、秀久が戸次川の戦い島津家久に大敗し改易されると官兵衛家臣、栗山利安(善助)の元に百石の知行で身を寄せた。

数年前までは前者の説が有力であったが、貝原益軒が記した「黒田家臣伝」からどうやら後者の説が正しいと目されてきたのが最近である。

史料が出てくる天正十四年以降は動向が明らかになっており、秀吉による九州征伐にて降伏した城井鎮房伊予への転封に抵抗し旧領に固執した為、鎮房の転封後に当地へと封じられる予定であった官兵衛と争った城井谷城での戦いに従軍している。


朝鮮出兵では文禄の役慶長の役両戦役に参戦し、文禄の役では第二次晋州城攻防戦にて城壁を抜き加藤清正配下の森本一久(儀太夫)らと一番乗りを競った。

慶長五年、関ヶ原の戦いでは黒田長政に従い、石田三成家臣の勇名轟く槍使い大橋掃部を一騎打ちで討ち取る等、兵として抜群の功績を挙げており、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つである大隈城益富城)一万六千石の所領を与えられた。


黒田家からの出奔

関ヶ原の戦いが終結して官兵衛の死後から二年が経過すると、元々犬猿の仲であった長政との関係がいよいよ本格的に深刻化。仲違いした末に慶長十一年、一族を強引に連れ出す形で黒田家を出奔してしまう。


自身のこれまでの実力を顧みればどの大名であっても自身を雇い入れてくれるだろうという自負心があったからこそ、又兵衛は何の躊躇も無く出奔を選ぶ事が出来たと思われるが、実は出奔の際、腹癒せ交じりに城門に長政の悪口を墨で書き殴っていた結果、長政の更なる勘気に触れてしまう事態となり、「奉公構」という再就職禁止令を幕府に提出されてしまう。

これによって徹底した又兵衛への追及が行われ、福島正則前田利長結城秀康等からその武勇を惜しんで召し出しがかかるも、奉公構の影響で実現しない形で終わり、自業自得とはいえ又兵衛は無聊をかこつ事になってしまう。

慶長十六年には京都にて浪人生活を送り爪に火をともす生活を送っていたとされており、この噂を知った家臣達に嘆願されたのか、長政も渋々と幕府と交渉を行って又兵衛を呼び戻そうとしたのだが、連絡が取れなかった事でうまくいかなかった。


その三年後となる慶長十九年、大坂城にて浪人の募集が始まると又兵衛は是に率先して応じる。後に云う大坂の陣である。

参加した当初は一浪人に過ぎない身であったものの、又兵衛は豊臣家からの許可を得て馬出となる「後藤丸」の建築を計画。既に資材も用意して後は建築の為の人出を集めるだけであったのだが、大坂牢人の筆頭格である「三人衆」の一人である真田信繁によって勝手に資材を撤去されてしまった上に、彼が構想していた出城「真田丸」の建築を開始する。当然、この事で恥をかかされた又兵衛は激怒し、薄田兼相に宥められながらも当時は無名も同然であった信繁に我慢のならなかった又兵衛は、賛同する牢人達と共に信繁を討ち取ろうと騒ぎを起こす大事へと発展させるも、大野治長毛利勝永に頼まれた明石全登が仲介に入った事で「軍議に関わらせる」のを条件に、信繁を許す事になった。

この結果、長宗我部盛親を筆頭とした勝永、信繁の三人で構成された牢人衆は、又兵衛、全登も加えた「大坂牢人五人衆」へと至る事になっている。

紆余曲折があったとはいえ、指揮を任されその見事振りから「摩利支天の再来」とまで称されており、大坂方では治長と並んで最重要人物の筆頭として数えられ、対する徳川家康からも開戦前に注意すべき武者として御宿勘兵衛と共に評価されていた程である。


 大坂夏の陣では先鋒として二千八百の兵を率い、寡兵にて徳川軍先鋒、奥田忠次らを討ち取りながら孤軍でおよそ八時間も奮戦し、敵味方から賞賛された。一般的には霧で後続の信繁・全登・勝永といった諸部隊が到着できなかった為、着陣した小松山にて奮戦の末に伊達政宗の家臣の片倉重綱の軍と戦い討死にしたとされるが、実際には各地に生存説が伝えられている。


フィクションにおける後藤又兵衛

100万人の戦国無双

震え上がれ、摩利支天さまのお出ましだ

浪人になったという経緯からか、ボロボロの服装に伸び放題のモジャモジャの髪に髭という外見をしている。

また、その時貧乏だったことからか、銭を集めているという設定がある。

一人称は『俺』で、武器は『鉾槍』。

史実通り黒田長政と険悪な仲。


関連イラスト

400年に向けて

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戦国武将

黒田官兵衛 黒田長政 真田幸村

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