概要
荒木飛呂彦氏の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』第5部『黄金の風』に登場する、台詞または思想である。
レオーネ・アバッキオの警官時代の友人が、彼に語ったもので、この台詞は本章の一つのテーマになっており、果てはジョジョシリーズ全体のテーゼとなっている。
今にも落ちてきそうな空の下で(コミックス第59巻より)
アバッキオ |
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警官 |
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アバッキオ | |
警官 |
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アバッキオ |
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警官 | そんな事はないよ…アバッキオ |
アバッキオ | え?… |
経緯
護衛チームはトリッシュの記憶からサルディニア島に辿り着き、アバッキオはスタンド「ムーディー・ブルース」の能力で島内を探索中に、一人の少年に出会い、次の瞬間何の前触れもなく誰かに攻撃され、致命傷を負わされてしまう。
そして次の瞬間。もはや死を待つほかないはずのアバッキオはなぜかどこかのオープンカフェで食事を摂っていた。
そしてアバッキオは、カフェのテーブル下で、割れたガラス瓶の欠片を集めて指紋の採集を試みる警官の存在に気づき、先の会話が始まる。
そしてアバッキオははたと気が付く。このオープンカフェが何であるのか。
そして…
アバッキオ |
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警官 |
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その警官は、かつて自分の愚かな行為が原因となって殉職させてしまった、あの警官だったと。
場面は切り替わり、ジョルノたちがアバッキオの遺体を見降ろし、悲劇を防げなかったことを悔やむ姿があった。
しかし、アバッキオは確かに遺していた。
死の寸前、ムーディー・ブルースによる再現は完了し、アバッキオは最期の力をありったけ込め、近くにあった銅像の台座にスタンドの顔を思いっきり叩きつけ、ボスの素顔(デスマスク)と指紋を刻みつけていたのだ。このダイイングメッセージと思わぬ第三者からの手助けを基に、ジョルノたちはボスを追ってローマへと向かった。
アバッキオは死んだ。だが、彼の真実を追い求める意志は一筋の希望を仲間達に残したのだ。そして、そんなアバッキオをかつて相棒だった警官は天国からずっと見守っていてくれたのだ。
心が救われたアバッキオは迎えに来てくれた警官とともに天へと召されるのだった。その死に顔は、満足と納得を得られた穏やかなものであった。
キング・クリムゾンへの反命題
このストーリーは、全てを覆い隠し他者を犠牲にすることで永遠の絶頂を得ようとしたディアボロと、その精神の体現である過程を吹き飛ばし結果だけを残すスタンド「キング・クリムゾン」とは、真っ向から反するところにテーマが存在する。その末に、ディアボロは「死んだ」という真実の結果に辿り着くことも出来ず、永遠に死に続ける過程だけを繰り返すという最悪の結末を迎えたことは、ファンならばもうご存じだろう。
太刀打ちしようもない絶大な力の前に屈するか、それでも針さえ通し難い小さな突破口を求めて足掻き続けるか。その選択と行動次第で、結末は無限に変わるのだ。
無意味な行動など何一つとしてない。良くも悪くも、行動にはちゃんと結果はついてくるのだから。
そこに向かおうとする、意思さえあれば。
余談
こう言った哲学的な話ではなく、実際に「結果を求めること」より「過程をやり抜く意志」が無いと人は堕落してしまうのは様々な例で示されている。
例えば「労働」一つとってもそうである。(良いか悪いかはさておき)「金」だけを求めて仕事をしていれば、給料に繋がらない自分の担当範囲でない仕事へのモチベーションや環境改善意欲は失せ、ただ命じられた仕事を命じられた様にやるだけになる、そこにはやる気も進歩もない、もしかしたら「金」の為に不正を働いたり、或いは楽に仕事をこなす為に手を抜いたりするかもしれない。
このように結果を求める中で、いつまでも手に入らない、変わらない現状で同じ意志を持ち続ける事には多大な労力を必要とする。
いきなり見知らぬ人に殴られたとして、その見知らぬ誰かに怒りを覚え、次見かけたら殴ってやると感じたとして一年、いや一ヶ月経ってもまだその怒りが持続しているだろうか?大抵はどうでも良くなっているはずで、本当に見掛けたとしてもわざわざ殴りに行く者の方が少数派だろう。
これは心理として致し方のない事であり、動物とて同じ現象は起きる。
「鼻先に人参をぶら下げられた馬」という比喩表現が用いられるが、コレが通用するのは短時間であり、賢い馬は壁などに押し付け自らの口元に持っていこうとするし、それが叶わなかったり気付かないとしても、長時間続くと「コレは手に入らないモノ」と察して興味を示さなくなる。
しかし、過程を重要視すれば同じ感情を抱き続けることが可能なのである。
例えば作中アバッキオの同僚がやっていた証拠集め
容疑者を有罪にするという結果だけを求めれば、アバッキオのように「もし掻い潜られたら」と考えてしまう。
だが容疑者が本当に無罪かもしれない、或いは容疑者が真犯人かもしれない、それを暴くという過程を重要視していれば、真実を追い求め続けることが可能になるのである。
しかし、これには悪い一面も勿論存在する、例えば「何年落ちても合格を諦めない浪人」
このうち"「自らが夢破れた惨めな負け犬」と認めない為に受かるまで浪人し続けるタイプ"の者は「今なお諦めていない」というポーズを取り続けても疲弊しないで同じポーズを撮り続けることができる。彼等が重要視しているのは合否ではなく「挑戦し続けている」という過程(挑戦し続ける内は負け犬ではない)であるため、このようなことが可能になる
後者の例の場合、本人が止めずとも、必ず限界はくる、人はドンドン離れ、何処かで必ず現実と向き合わされる。
しかし、前者の例ならば、仮に自分がダメだったとしても必ず誰かが意志を継ぎ、真実に到達してくれる。その愚直なまでの背中は沢山の人を惹きつけ、沢山の仲間ができるだろう。
過程を重要視すれば同じ現象は起こし得る。
だからこそ必要なのは結果を偽り続ける事ではなく、真実へ向かおうとする事なのである。
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外部リンク
コロナ禍に響く荒木飛呂彦さんの言葉、「真実に向かおうとする意思」:この台詞にまつわる作者のコメントが書かれている。