日本国有鉄道が製造した国内初の特急形気動車、キハ80系気動車の第1次製造グループにおける運転台付車両の形式名称。同グループを「キハ81系」と称する場合がある。
1960年に東北本線・常磐線の特急「はつかり」用に国鉄としては初の特急専用気動車として製造され、特急としての優等装備や新装備を盛り込んだものの、肝心の不具合洗い出しの期間が十分に取れず営業運転の際に初期故障が多発してしまった。
増備車を含めた系列全体についてはキハ80系を参照されたい。
旅客用装備
主要機器
エンジンは当時の気動車では標準的なDMH17系ディーゼルエンジンであるが、車室内が防音・防振のため浮き床構造になっており、また騒音の入り口となっている点検蓋が設けられないため、シリンダーが水平になっているDMH17Hを採用している。走行用エンジンは先頭車は1基(もう1基はボンネット内の電源用エンジン)、中間車は2基搭載している。ちなみに、食堂車は室内機器などの関係上、電源用エンジン(DMH17H-G)のみ搭載しており走行用エンジンを搭載していない。変速方式は国内では一般的な液体式である。ちなみに、ブレーキは当時の気動車では一般的であった自動空気ブレーキを採用している。また、車体間には乗り心地改善のため車体間ロールダンパーが装備されている。また、窓は完全空調前提のため、複層式の固定窓となっている。
外見
151系(181系)特急電車の様にボンネット形特急を踏襲したデザインであったが、発電用エンジンのボンネット内搭載の都合やタブレット授受のため運転台を低くしなければならないといった都合により、151系を寸詰まりにしたようなデザインとなり「犬顔」や「ブルドッグ」という俗称がついた。
初期トラブル・断念した装備
設計から営業運転への配属までの期間が短く、不具合の洗い出しや新装備の試験の期間が十分に取れず、また高負荷で長距離(約750km)、しかも途中には連続勾配のある路線で営業運転という過酷な条件によりトラブルが多発し、乗客から不評を買うどころかマスコミには「はつかりがっかり事故ばっかり」と揶揄されてしまった。不具合洗い出しの期間が十分取れればこのような事にはならなかったと思うと、たいへん残念なことである。
断念した装備
キハ60系を試験車として開発を進めていた400PS級のエンジン(DMF31HS)と変速1段・直結2段の専用変速機(DW1)を搭載する予定であったが、エンジン・変速機ともども結果は思わしくなく、不具合解決の期間もなかったため、断念。代案として実績のあったDMH17系エンジンを基にシリンダーを水平に設計変更し搭載することとなった。
エンジントラブル
新しく採用された水平型のエンジンは潤滑が不均一などまだ弱点を持っており、また総出力に対して編成重量が重く更に先頭車・最後尾は走行用エンジンが1基だけ、食堂車は走行用動力なしという走行用エンジン一基ずつに対する負荷が大きいにもかかわらず特急運用のため減速比を高速寄りに設計したことにより、何基ものエンジンが不調を起している中で連続勾配での過負荷に耐えられず、立ち往生したり排気管が過熱し火災が発生した。また、発電用エンジンの不調による空調停止も生じた。
ブレーキトラブル
機関ブレーキが採用されておらず、またブレーキそのものも片押し式であったため、高速時からの制動力に欠け、またブレーキからの火花による火災も発生した。
制御機器関連トラブル
取り扱いの不慣れによる配線溶断により逆転機や制御機トラブルが発生した。
後継車
2次車以降となる「キハ82系」グループではこれらのトラブルを教訓に改良がなされた。また編成の自由度向上のため、先頭車には貫通路が設けられ先頭車の外見も大きく変わった。
その後
不具合対応や改良を施しつつ「はつかり」で活躍したが1968年の東北本線全線電化で583系に置換えられた。以後、特に先頭車のキハ81は全車が揃って「つばさ」→「いなほ」・「ひたち」→「くろしお」へと転じ、1978年の紀勢本線西半部電化により引退した。
2011年現在、大阪市の交通科学博物館にキハ81 3が静態保存されている。
関連動画
国鉄がARC(アジア鉄道首脳者会議)用に製作したPV。