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シュペルエタンダールの編集履歴

2012-06-17 11:03:46 バージョン

シュペルエタンダール

しゅぺるえたんだーる

フランス海軍の艦上攻撃機。1950年代後半に採用されたエタンダールⅣの後継機であり、1974年に初飛行を遂げている。純粋な改良発展型でもあり、基本骨格はほぼそのまま使われている。

『シュペル』とは英語で言う「スーパー」の意、

『エタンダール』は「軍旗」を表すフランス語である。

開発・生産はダッソー社によって行われた。


ダッソー・エタンダールⅣ(4)

1954年、NATOは加盟各国の空軍に向けた『軽戦術戦闘攻撃機計画(LWTSF:Light Weight Tactical Strike Fighter)』を開始した。


これに対してフランスが提出したのが、この「エタンダールⅣ」開発計画である。

本来はイギリス製のエンジンを使うように指定されていたが、

ダッソー社は構想中の計画を基に提出したため、フランス国産のエンジンを搭載している。


イギリスのエンジンを採用しなかったので空軍の採用には至らなかったが、

のちにフランス海軍の目に留まって、こちらは採用を勝ち取った。


1959年に偵察機30機と攻撃機60機が発注され、

1962年から実戦配備が開始された。

最高速度はマッハ1.3となっており、同じような目的で開発されたA-7よりも高速である。

(艦上機・攻撃機という共通点があり、開発時期も近い)

ただし搭載量はわずか1.3tとなっており、こちらは大幅に差を付けられている。


輸出はされず、生産機はフランス海軍で2000年まで運用された。

最後まで運用していたのは偵察機部隊だが、

攻撃機部隊は1980年代初めごろ、訓練部隊でも1991年まで使われている。


シュペルエタンダール

1970年代、フランス海軍ではエタンダールⅣ(攻撃機型)の後継機を求めていた。

当初はSEPECAT ジャギュアの艦上機を予定してはいたが、

開発にはコスト増が予想された為、1973年にダッソー社の提案した改良型エタンダールを採用した。


開発は「エグゾセ」対艦ミサイルと共に進められており、

1974年に原型機、1977年に最初の生産機が初飛行している。

翌1978年からフランス海軍への引き渡しが始まっており、1983年に生産が終了した。


主武装としては各種爆弾マトラ社製の「マジック」対空ミサイルだが、

エグゾセ対艦ミサイルを運用することも出来る。

ただし搭載量そのものは2.1tと少なく、攻撃力そのものは低い。

1985年からは近代化改修が行われており、ASMP核巡航ミサイルを運用できるようになった。


イラクに6機が貸与、アルゼンチンには14機輸出されており、

中でもアルゼンチンはエグゾセにより艦船2隻(駆逐艦1隻・輸送艦1隻)を撃沈している。


イラクも損害1機を除く5機を返還している。

これはミラージュⅢ引き渡しが遅れた「つなぎ」だった為である。


総生産数は85機。

一応、2010年にはラファールへの交替が予定されているというが・・・


フォークランドに沈む軍旗

本機がそれなりの知名度を持っているのは、

純粋に『フォークランド紛争』での戦果が評価されている、という事に他ならない。


シュペルエタンダールは飛び抜けた性能を持たない(むしろ低い)、平凡な攻撃機である。

輸出もわずか2か国と限定されており、生産機も少ない。


この戦争でアルゼンチン空軍は本機を「エグゾセ発射の母機」として使い、

前記のとおり2隻を撃沈している。


この戦果は世界中の海軍に衝撃を与え、長射程の対艦ミサイルの有効性や

艦隊防空における本格的なレーダー機の必要性、

VTOL戦闘機の防空能力の低さが浮き彫りとなった。


当時のイギリス海軍は防空レーダー網をヘリコプター改造機に頼っており、

これは滞空時間・レーダー探知距離に問題があった。

この戦争ではそこを突かれた事になり、

実際にシュペルエタンダールやA-4は低空飛行でレーダー網を突破している。


また、近接防空システム([CIWS]])が整備されていなかった事も損害を増やした要因である

攻撃機が艦隊に接近しすぎてしまい、ミサイルが使えなかったのだ。

結果、艦隊の近接防空は「甲板にならんだ水兵の一斉射」に頼ることになった。


本格的な防空レーダーと艦隊近接防空システム(CIWS)の不備

これがフォークランドの戦訓だった。


いっぽう、この戦争で大戦果を挙げたとも解釈できるアルゼンチンだが、

実際にはそう甘く無かった。

本土から遠く離れた艦隊への攻撃は危険が大きかったのだ。


航法の問題だけではない。

あまりに離れているので、撃墜された味方の搭乗員を救助できないのだ。

救助ヘリの航続距離の外でもあり、搭乗員は結果的に見捨てられる事になった。


ともかく、この戦争でイギリス空母の意義を問われる事になる。

VTOL空母では能力不足が明らかとなり、

議会からは余計に注目を失っていく事にもなっていく。


結果として空母はインド海軍へ売却される事になり、

ここにイギリス海軍における空母の歴史は終わりを告げる事になるのである。

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