ラインハルト・ハイドリヒ
らいんはるとはいどりひ
概要
親衛隊大将や国家保安本部(RSHA)の初代長官、最終的にはベーメン・メーレン保護領総督にまで上り詰めた。
優れた密偵・工作の能力でドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者となった。ユダヤ人問題の『最終的解決』の実質的な推進者であり、すなわちナチのユダヤ人虐殺を推し進めた象徴的存在とも言える。それに加え、長いナイフの夜事件、水晶の夜事件、スターリンの大粛清、第二次世界大戦開戦にも深く関わった。端的に言えば、ナチスの重大な犯罪行為ほぼすべてに関わった人物と言えるだろう。
その冷酷さから「金髪の野獣」と渾名された。またその優秀さと冷酷な仕事ぶりからヒトラーからも信頼され、ナチ支配が長く続き存命であったならばヒトラーの後継者は彼だっただろうとも言われる。
ユダヤ人問題の『最終的解決』は後世に「ホロコースト」と呼ばれ、即ちユダヤ人の絶滅を意味したのだが、何故こうした主義を抱く様になったのかについては、母方の祖母の再婚相手がユダヤ人のような名前だった事から少年時代から「ハイドリヒはユダヤ人だ」と馬鹿にされて苛められていたことから繋がっている。反ユダヤ主義とは、政治的なものではなく医学的なものであるという言葉を残すほど、過去の屈辱はハイドリヒの思想に強烈な影響を残し、ユダヤ人は抹殺するべきであると言う旨の言葉を多く残している。
しかし、同時にナチの思想に対して絶対的な忠誠を誓ってはいる訳では無かった。彼にとって党・国家・民族・総統は自身の最大の目的であるユダヤ人絶滅を達成するために利用する道具以上のものではなく、度々ヒトラーについても「しくじったら始末してやる」と嘯いていた。
元々、海軍の軍人だったが、奔放な女性関係がバレてしまい(そのうちの一人は海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥の姪)、除隊処分に陥る。
1931年に、親衛隊を拡張するために情報機関の設立を画策したヒムラーによって親衛隊へと入隊した。ヒムラーは軍事や情報工作について全くの素人であり、彼の経歴である""通信将校"を"情報将校"と勘違いして書類選考を通し、ついであるべき情報機関の構想についてハイドリヒに質問をしたのだが、当時読んでいたスパイ小説をもとにプレゼンテーションしたハイドリヒの出まかせに関心して採用を決めたという逸話がある。
この二人の勘違いと出まかせがなければ、後の悲劇もあれほどの規模にならなかったかもしれない。
第二次世界大戦開始以前から国内と他国から情報をかき集めて、ナチスが優位に立つように働いた。そうして親衛隊の中ではヒムラーに次ぐ有力な軍人として君臨し、1943年にベーメン・メーレン保護領と称されたチェコの植民地を懐柔政策と徹底的な圧力で統治する支配者になる。ハイドリヒの巧みな恐怖政治によりチェコの統治は円滑に進み、その功績が認められてハイドリヒはより重職につくことが内定していた。
しかし、ハイドリヒは自分の能力と統治の成果を過信しすぎていた。かねてよりプラハ郊外の山荘に暮らし、わずかな護衛とオープンカーで出勤・視察するという彼の態度はヒムラーの度重なる注意があっても改まらず、シュペーアにも注意されると「私のチェコ人が、どうして私を殺すというのかね?」と取り合わなかったことが命取りとなった。
彼の影響を恐れた敵・連合国のイギリスは、チェコ当地の人民や政府によってハイドリヒを暗殺させる計画「エンスラポイド作戦」を立案。
チェコ軍人を暗殺部隊に育てる計画の援助を行ない、1942年5月にチェコのプラハで乗車中だったハイドリヒは、部隊からの銃撃と爆破攻撃を受ける。後日6月4日に病弱が悪化し死亡。
ヒトラーらは彼の死を嘆いたあげく、報復として保護領ナンバー2の実権を握っていたカール・ヘルマン・フランクに命じ、逃亡していた暗殺部隊を含む多くのチェコ人が殺され、虐殺を逃れたチェコ人も強制収容所に送られてしまった。(有名どころではリディツェ村の虐殺)
彼の死については、ハイドリヒという優れた存在を恐れ、己の身分を守ろうと部下を死に至らしめたという上司、ハインリヒ・ヒムラーの陰謀が絡んだという陰謀論が存在するが、確証はない。実際のヒムラーはハイドリヒが襲撃されたという報を聞くと医師団をベルリンから急行させ、自らも茫然自失しながら後に続いてハイドリヒを見舞っている。
ちなみに、ハイドリヒは命を落とす9か月前にプラハ城内にある聖ヴィート大聖堂という教会に安置されていたボヘミア王の王冠(聖ヴァーツラフの王冠)を遊び半分で被ったことがあった。その王冠には「真のボヘミア王以外の者が被れば必ず一年以内に死ぬ」という伝説があり、ハイドリヒはそれを否定するために被ったのである。その結果は先述の通り。
余談になるが、後任の保護領総督はクルト・ダリューゲという人物が選ばれたものの、持病の悪化で1年経たずに辞退。終戦までベーメン・レーメン保護領において恐慌政治を行っていたのは、チェコ人ヘイトに生涯を捧げたカール・ヘルマン・フランクである。
人物
ハイドリヒはめったに笑わず、人前に出ることを好まなかった。
ハイドリヒはフェンシングに長け、乗馬・飛行機・スキーといったものの操縦にも優れていた。特にフェンシングではオリンピック代表に選ばれ、SSでは体育監察官を務めるほどのスポーツマンであり、そのためかスポーツ選手には比較的寛容であったとされる(ユダヤ系スポーツ選手が国外逃亡できるよう手配した事があると言われる)。しかし、それでも友人はほぼいなかった。
またその数少ない友人の一人が後にヒトラー暗殺計画に加担したとされ処刑される国防軍情報部(アプヴェーア)長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将であったのは皮肉である。そのカナリスとも、表向きは家族ぐるみの友好な関係を築きながらも個人間では嫌悪が存在したとされる。
SSの高級幹部たちと遊興に耽ることはあったが、美貌の持ち主だったのにもかかわらず、娼婦たちの間でも不人気だった(それどころか情報収集のために盗聴器だらけの娼館を営業していた上に自身も常連で、挙句の果てに自分が利用する時だけは盗聴器のスイッチを全てOFFにさせていたという体たらくだった)。写真を撮影されるときも、ハイドリヒは狼のような目つきでカメラを凝視するために、彼が笑顔を堪えて写し出された写真は殆ど無いと言ってもよい。
また体格に比して声は甲高く、「雌ヤギ」と呼ばれることもあった。またヒムラーは彼の陰口を叩く際、細くつり上がった目を指して「モンゴル人」と称する事があった。
ヒムラーにとって総統ヒトラーは絶対的存在であったが、上司が総統に見せる忠誠心をハイドリヒは侮蔑していた。ハイドリヒはあらゆるイデオロギーを軽蔑しており、ナチスの主義思想を信奉しようとは全くしなかった。ヒムラーはハイドリヒの優秀さを内心恐れていたが、同時にその手腕に頼らざるをえなかった。ゲーリングはヒムラーを嘲る意味を込めて「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich ヒムラーの頭脳すなわちハイドリヒ)という言葉を残している。
総統ヒトラーからも高く評価され重用されていたにも拘らず、ハイドリヒはそのヒトラーすらも内心で軽んじていたという。同僚の多くは、もしハイドリヒが存命だったならばヒトラーの暗殺未遂事件でハイドリヒは実行者側に回っていただろうと証言している。
そんな人物だったので、生前からも「完璧なまでの獣」、訃報を受けた際も「やれやれ、あのけだものも、ようやく死んだか」と言われるほど、同僚達からの評価は散々だった。
公人として優秀な代わりに人格面に欠陥を抱えるものの多いナチス高官において、その最たる例とも言うべき人物であったが、家庭では女性問題の酷さを除けば意外と真っ当な人物であったという。結婚の際の些細な擦れ違いから疎遠になってからも母への仕送りを欠かさなかった孝行息子であり、(長男が事故で夭逝したのもあるのだろうが)次男が少年兵になるのを防ぐためにヒトラーユーゲントに入れなかった子煩悩でもある。女性問題の方も奥方が(多分、数え切れない数の女性問題に対する報復目的で)浮気して以降は反省したらしく、以後は生涯夫婦円満であった。奥方は後に再婚したものの、死ぬまでハイドリヒを擁護し続け、彼が熱を入れあげていたホロコーストの存在も否認した。
フィクションにおけるハイドリヒ
その冷徹さ・カリスマ性がウリで、主にWWⅡを舞台・モデルにした作品に出ることが多い。
歴史改変小説などにおいては、その有能さと野心からヒムラーに代わってSSの指導者に昇進させられたり、ヒトラー亡き後の総統にされたりする事もある。
日本においては漫画・小説・ゲーム以外の作品にはめったに出ない上、戦時中に死去してしまう事からヒトラーやヒムラー、アイヒマンに役を取られがちである。
- 「死刑執行人もまた死す」(1943)
戦時下のアメリカで作られた映画。ハイドリヒの手腕を恐れた連合国がチェコ人のレジスタンスに暗殺を命じ、その暗殺計画に関わるレジスタンス達の切迫した状況と葛藤を描く。
ちなみにハイドリヒが死去したのは1942年なので、死からわずか一年後に作られたものである。
- 「レートル」シリーズ(1990)
主人公のライバル役の人物・ヴィクトールの叔父として登場。
- 『レッドサン ブラッククロス』(1993~)
WW2以後も第三帝国が存在する世界で第三代総統となる。
この世界でもエンスラポイド作戦は実行されたが失敗している。
- 広江礼威作品
『翡翠峡奇譚』(1993)で総統直属部隊の女魔術師に脅され敬語で命乞いをするという場面がある。また『ブラック・ラグーン』(2001~)では元SS将校の回想で名前だけ登場する。
- 「策謀」(2003)
アメリカで放映されたTV映画。大戦末期にハイドリヒ主催で開かれたユダヤ人問題の会議『ヴァンゼー会議』を描いたもの。何気ないナチス高官たちの会食の中で、600万人ものユダヤ人の運命が決定されてしまう。
- 『総統の子ら』(2003)
海外映画におけるハイドリヒのような独特のいやらしさを持つ描かれ方をしている。
- 『ムダヅモ無き改革』(2006~)
第四帝国国民に「ラインハルト」という人物が登場する。容姿がよく似ているがどう見ても小物のため別人である。非公式だが作者が「ハイドリヒの子孫」と語ったという話がある。
- 『Dies irae』(2007)
かつてナチスドイツによって創設された、現代に蘇りし魔人の組織聖槍十三騎士団の首領。
戦時中に魔術師に誑かされ、魔術の薫陶を受けた事で現代まで生き延びている。人を超越しているので百余歳にもかかわらずイケメン。
- 『神の棘』(2010)
ミステリー歴史小説。史実通り親衛隊のナンバー2として登場しており、小説内では他の第三帝国幹部とは比較にならないほど登場比率が高い。二人の主人公の内、親衛隊情報部に所属するアルベルトの上司であり、ある種の後見人的立ち位置。
- 『ファーザーランド』
イギリスの作家「ロバート・ハリス」の手による歴史改変小説。
1994年にはアメリカでテレビ映画化された。
直接登場はしない(ヒトラーも史実におけるバルバロッサ作戦以後の健康状態が嘘のような長期政権を築いている)が、ハイドリヒがエンスラポイド作戦を生き延びた事が、ドイツ勝利のきっかけとなっている。
なお、名前のラインハルトと聞くと某SF小説作品の金髪の孺子を思い出してしまうのは、やはり知名度の違いというべきか…。あの作品では軍務尚書あたりがハイドリヒに相当する役柄だと思う、というのは余談。むしろ、人格的には公人としては外道だったが私人としては慈善事業支援と家族の幸せに人生を捧げた狸親父の方に相当すると思われる。ただし自身の警護が大量について仰々しくなることを嫌っていた面では多少似ているかもしれない。
経歴
1922年 | 18歳でドイツ海軍に入隊。士官候補生となる。 |
1926年 | 海軍少尉に任官。通信将校となる。 |
1928年 | 中尉に昇進。周りから有能な将校と目されるも、性格が災いして周りから孤立気味だった。 |
1931年 | プレイボーイ精神を発揮しすぎて海軍上層部とコネがあるドイツ屈指の大企業重役の娘に手を出したため軍法会議にかけられ、不名誉除隊処分を受ける。 |
その後、通信将校のハイドリヒを情報将校と勘違いした親衛隊からスカウトされる。 | |
海軍解任が有効になった翌日にナチスに入党。その二週間後の7月14日にSSに入隊。SS少尉に。 | |
8月10日にSS中尉に昇進し、12月1日にはSS大尉に、25日にSS少佐に昇進。 | |
1932年 | 7月にSD長官に任命され、親衛隊の情報部門の責任者となる。 |
その10日後、SS大佐に二階級特進する。 | |
1933年 | 3月21日にSS上級大佐に昇進。ミュンヘン警察政治局長に任命される。 |
4月1日にはヒムラーがバイエルン州警察長官に昇進し、ハイドリヒも州政治警察部長となる。 | |
11月9日、SS少将に昇進 | |
1934年 | 4月20日、ゲーリングはヒムラーをゲシュタポ長官代理に任命。その2日後にハイドリヒはゲシュタポ局長に任命される。 |
長いナイフの夜の活躍により、SDはナチス党内で唯一の諜報機関と認められる。 | |
6月30日にSS中将に昇進。 | |
1936年 | 6月17日にドイツ全州の警察指揮権が中央政府に移管され、ヒムラーがドイツ警察長官に。 |
6月25日にヒムラーによって刑事警察とゲシュタポが統合され、ハイドリヒは保安警察長官に任命される。 | |
1939年 | ユダヤ人問題を担当していたゲーリングの命令で「ユダヤ人移住中央本部」が開設。その本部長に就任する。 |
趣味の飛行機フライトだけでは満足できなくなり空軍の訓練を受け、空軍予備役中尉になる。 | |
9月1日にポーランド侵攻が開始されると空軍将校に頼み込んで機銃手として参戦。 | |
9月27日、SDと保安警察が統合され、親衛隊内に国家保安本部が設立。その初代長官となる。 | |
1940年 | ポーランド戦における戦果で空軍予備役大尉に昇進。 |
4月には戦闘機のパイロットとしてノルウェー戦線に出撃している。 | |
8月に国際刑事警察委員会(インターポール)の総裁に就任。 | |
1941年 | 空軍予備役少佐に昇進。 |
ゲーリングにユダヤ人問題を委任される。 | |
東部戦線で撃墜されたが生還。総統から飛行禁止命令を受ける。 | |
9月23日にヒトラーからベーメン・メーレン保護領副総督に任命される。 | |
副総督に任命された翌日に親衛隊大将及び警察大将に昇進。 | |
1942年 | 1月20日にユダヤ人絶滅作戦が決定されたヴァンゼー会議を主宰。 |
ベーメン・メーレン保護領統治が成功したのを受け、次期フランス・ベルギー総督に内定。 | |
5月27日にチェコのレジスタンスの奇襲を受け、病院に移送される。 | |
6月4日に「負傷による感染症」で死去。 |
このように某SF小説作品のラインハルトに勝るとも劣らぬ出世スピードである。
死亡時の肩書を列挙すると、以下の通りである。
- 親衛隊大将及び警察大将
- 国家保安本部長官(総統以外に干渉されない為に保安警察及びSD長官の肩書を使い続けた)
- ベーメン・メーレン保護領副総督(総督がお飾りなので事実上チェコの王様)
- ユダヤ人問題の担当
- ドイツ国会議員
- インターポール総裁
- 次期フランス・ベルギー総督
- 空軍予備役少佐
- 元海軍中尉(不名誉除隊処分)
分かりやすくまとめると情報機関と警察組織の大部分を掌握しており、統治能力も桁外れで、空軍パイロットとして政府の高官なのに前線勤務してる勇気と活力があり、ユダヤ人絶命作戦の実質的指導者であり、第三帝国総統ヒトラーからの評価も極めて高いという人物。
総統から直々に後継者指定を受けていたゲーリングや上司であるヒムラーをさしおいて、ヒトラーの後継者と内外で噂されたのもうなずける話である。