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フランツ・ヨーゼフ1世の編集履歴

2023-11-03 10:06:33 バージョン

フランツ・ヨーゼフ1世

ふらんつよーぜふいっせい

オーストリア=ハンガリー帝国皇帝。(1830〜1916)。メイン画像中心の老人。

人物像

  • 王権神授説を信じる絶対主義的な君主であり、かつ貴賤結婚を断固として認めない古いタイプの君主であった。実際にフランツ・ヨーゼフ1世も自らを「旧時代の最後の君主」であると認めており、1910年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトと会談した際にも「もしマクシミリアン1世が最後の騎士とするなら、フランツ・ヨーゼフは最後の君主である」と自ら語っている。王朝と国家は、彼の心の中では同一の概念であった。そのわりには質素な生活ぶりであったが、代わりに宮廷儀典の厳守を強く主張した。また、晩年にはこのように語っている。「余は久しい以前からよくわかっていた。今日の世界にあって、我々がいかに変わり者であるかを…」

  • 新しいもの、すなわち「文明の利器」である機械にアレルギーを示し、自動車電話は決して用いようとしなかった。自動車については77歳の時に、イギリス王エドワード7世の求めに応じて1度だけ彼と同乗したことがあるが、電話については1度も使ったことがなかった。ただし、電信機だけはよく利用した。どのようなことも電報で通信し、シェーンブルン宮殿の他の部屋への連絡にも用いた。

  • 1835年、5歳のクリスマスの際に「私が一番好きなのは軍隊のものです」と語るなど、幼い頃から非常に軍隊を愛した。幼少期にねだった玩具は、軍隊に関連するものばかりであった。16歳の時に初めて帝国陸軍将校の軍服を身に着けることができ、非常に感激したという逸話も伝わる。皇帝の正装は金羊毛騎士団のローブ(スペイン風式服)である[要出典]が、フランツ・ヨーゼフ1世は軍服ばかりを着用し、ローブに袖を通すことはほとんどなかった。フランツ・ヨーゼフはハプスブルク家の古くからの宮廷儀典を非常に重んじたものの、服装についてはその対象外であった。

  • 狩猟が少年期からの趣味であり、ウィーン近郊のいたるところに狩りのための別荘を建てている。休暇日や保養に出かけた際にはよく鹿狩りを楽しんだ。祖父フランツ1世の時代までは、あらかじめ捕獲された野生動物を、白馬に乗った皇帝らが宮廷楽団の音楽を背景に追いかけるという宮廷行事だったが、フランツ・ヨーゼフはみずから猟銃を背負って狩人さながらの恰好で山腹を歩き回った。息子ルドルフへしばしば送る手紙に「今日はどこぞでイノシシを何頭、シカを何頭射た」と得意げに書き添えた。しかしルドルフに先立たれてしばらくの間は、「鹿を見るとルドルフのことを思い出してしまう」と言って狩猟から足を遠のけた。

  • 芝居は好んだが音楽にはほとんど関心を示さず、芝居を見に行った際に聴衆が一斉に起立しているのを見るまで、皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』を知らなかったという。芸術・音楽・文学などには疎かったにもかかわらずそれらの庇護者であり、当時ウィーンの批評家に酷評されていたジュゼッペ・ヴェルディに対する支持をヨハン・シュトラウス2世とともに表明している。なお、音楽については基本的にほとんど興味がなかったが、例外的にシュランメル音楽を好み、皇后から紹介された女友達の舞台女優カタリーナ・シュラットとともにしばしば聴きに行ったという。

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オーストリア=ハンガリー帝国 ハプスブルク家 皇帝


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