生涯
涼州扶風郡に生まれる。父の孟佗は宦官の張譲に賄賂を贈って涼州刺史の地位を得たと言われているが、詳細不明。孟達自身は弁舌に優れ、才気溢れる人物であったという。後に涼州を飢饉が襲い、197年頃、同郷の法正と共に故郷を離れて益州(蜀)の州牧であった劉璋を頼る。
しかし、惰弱と評されている劉璋の配下でいることに不安を覚え、法正、張松らと謀って劉備を蜀に迎え入れる。張松が劉璋に処刑されるという事態に遭遇しながらも、214年、劉備は蜀を平定。同時に孟達は都郡太守に任命され、荊州西北部の統轄を委ねられる。なお、この頃字を子度と改めている(劉備の叔父に劉子敬という人物がおり、慣例として目上の人間と諱が重なるのは避けられていたため)。217年に劉備が漢中に進軍すると、劉備の養子・劉封の副将となった。
その後は劉封に従い、219年には房陵郡太守の蒯祺を滅ぼし、上庸郡太守の申耽と弟の申儀も降す。しかし、南郡の襄陽と樊城で戦っていた関羽から受けた援軍要請を、治安維持を理由に拒否(劉封、孟達共に関羽と不仲だったからとも)。結果、関羽は敗死。そのせいで蜀での立場が悪くなり、元々不仲だった劉封との関係が更に悪化。親友法正の病死も重なり、孟達は配下四千人を連れて魏に投降する。
魏の皇帝曹丕は当初この投降を疑うも、孟達の理路整然とした弁舌とその優雅な立ち振る舞いを気に入り、以後は優遇するようになる。蜀に残った劉封が攻めて来た際は、最初は劉封を降伏させようとするも拒絶されたため、申兄弟を内応させて夏侯尚、徐晃らと共にこれを撃退。この結果を受けて曹丕からの信認は一層厚くなり、夏侯尚、桓階という親友も得たが、その一方で劉曄と司馬懿からは強く警戒されていた。
やがて曹丕と親友2名が死ぬと、彼は再び不安定な立場を強いられ、今度は呉へ降ることを考えていた。そこに目をつけた諸葛亮と李厳は、孟達に再度蜀へ戻るよう促す。さらに申兄弟にわざとこの情報を漏洩し、孟達がすぐに行動に移るよう追い込んだ。一方で申兄弟からの密告でこのことを知った司馬懿は、孟達の予想を遥かに上回る速度と軍容(孟達は上奏も含め一ヶ月かかると予想していたが、わずか8日の強行軍で到着し、軍は孟達側の4倍あった)で上庸を攻撃。離反者相次ぐ中、それでも半月以上持ちこたえるもついに討たれ、一族も皆殺しとなった。しかし、その時諸葛亮のもとに派遣されていた子の孟興はそのまま蜀に仕え、蜀の滅亡後は父の故郷である涼州に向かい、その地で没したという。
フィクションでの孟達
『関羽を見殺しにした武将』の一人であり、必要に迫られた面もあったとはいえ、その生涯で何度も主を変えたため、その描かれ方はあまり良くない。『三国志演義』でもその動静はほぼ同じだが、司馬懿に従って蜀を攻めるも、親友・李厳と対峙して良心の呵責により撤退している他、謀反を起こした際、攻めてきた徐晃を弓で射殺している。最期は申耽に討たれる。
さらに反三国志では
上記の通り原典では色んな意味で憎たらしい活躍ぶりのため、此方での下げ方も捻くれている。
即ち、劉璋軍の者として劉備の侵攻に敗れた時点で尻尾巻いて逃げ、以降もう登場しないザコキャラに成り下がっている。