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バヤコアの編集履歴

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バヤコア

ばやこあ

アルゼンチン生産・調教の競走馬・繁殖牝馬。後にアメリカ合衆国へ移籍。

概要

アルゼンチン生産・調教の競走馬繁殖牝馬。後にアメリカ合衆国へ移籍し、アメリカ競馬を席捲した。

主な勝ち鞍はパレルモ大賞典(1987年)、BCディスタフ(1989年、1990年)など。GⅠレースを12勝した。


プロフィール

性別
毛色鹿毛
コンサルタンツビッド
アルセア母父グッドマナーズ
生産者ハラス・プリンシパルアルゼンチン
馬主ファン・カルロス・ビアノ(アルゼンチン)→ウィサム夫妻アメリカ
調教師O・L・フィナレッリィ(アルゼンチン)→ホルヘ・マチャド(アルゼンチン)→ロン・マッカナリー(アメリカ)
競走成績39戦21勝
  • アルゼンチン:8戦3勝
  • アメリカ:31戦18勝

略歴

1984年

10月10日、アルゼンチンのハラス・プリンシパルにより生産された。

父コンサルタンツビッドはアメリカ競馬で6戦2勝という凡庸な競走成績だったが、ウインディズドーター半弟という血統が評価され、アルゼンチンに輸出され種牡馬となった。

母アルセアは19世紀にイギリスから導入された繁殖牝馬アンテディエムの末裔で、南米きっての名門牝系に属していた。

母父グッドマナーズはアメリカ競馬で57戦9勝という凡庸な競走成績だったが、アルゼンチンに種牡馬として輸出されると1979年、1980年にアルゼンチンリーディングサイアーに輝くなど大成功をおさめた。

非常に神経質で気の荒い仔馬であった。

ファン・カルロス・ビアノが馬主となり、O・L・フィナレッリィ調教師に預けられた。


1987年

2月15日、パレルモ競馬場ヴィラーレス賞ダート1000m)でデビューし、シェレザーデの2着に敗れた。この時から既に逃げを戦法としていた。

4月10日、パレルモ競馬場のプリエト氏賞(ダート1000m)に出走し1着。初勝利を挙げた。

5月17日、パレルモ競馬場のホルヘデアトゥーチャ大賞(ダート1500m・GⅠ)に出走し、キャンディラの6着に敗れた。

6月21日、サンイシドロ競馬場マシュヴァレンテ賞1400m)に出走し1着。

7月18日、サンイシドロ競馬場の1000ギニー大賞(芝1600m・GⅠ)に出走し、ペロヨセの9着に敗れた。ホルヘ・マチャド厩舎に転厩。

8月23日、パレルモ競馬場のアルゼンチン1000ギニー(ダート1600m・GⅠ)に出走し、ポデイカの2着に敗れた。

10月10日、サンイシドロ競馬場のサンイシドロ大賞(芝1600m・GⅠ)に出走し、カウティンの2着に敗れた。

11月1日、パレルモ競馬場のパレルモ大賞(芝1600m・GⅠ)に出走し1着。アルゼンチンの強豪マイラーが集結したが、12馬身差でGⅠ初勝利。この勝利にアメリカのロン・マッカナリー調教師が注目し、ウィサム夫妻にバヤコアを購入する事を薦め、アメリカ競馬に移籍する事となった。

シーズン後半はレースに出なかったものの、1987/1988シーズンのアルゼンチン最優秀マイラーに選出された。


1988年

カリフォルニア州のマッカナリー師の厩舎に移籍。マッカナリー師はジョンヘンリーを手掛けた経験からバヤコアの気性の改善を図った。

5月11日、ハリウッドパーク競馬場一般競走(芝8ハロン)に出走し1着。アメリカでのデビューを飾った。

5月29日、カンタベリーパーク競馬場レディカンタベリーハンデキャップ(芝8ハロン)に出走し、フランスから遠征してきたバルボネラの6着に敗れた。

8月6日、デルマー競馬場オスニタスハンデキャップ(芝8.5ハロン)に出走し、チョリソーの5着に敗れた。

9月5日、デルマー競馬場のジューンダーリンステークス(ダート8ハロン)に出走し、10馬身差をつけ1着。

10月6日、サンタアニタパーク競馬場の一般競走(芝8ハロン)に出走し、フランスから遠征してきたダロマの2着に敗れた。

10月30日、サンタアニタパーク競馬場のミッドウィックハンデキャップ(芝8ハロン)に出走し、バルボネラの10着に敗れた。

12月17日、ハリウッドパーク競馬場の一般競走(ダート7ハロン)に出走しチリ競馬から移籍のミスブリオの2着に敗れた。


1989年

1月5日、サンタアニタパーク競馬場の一般競走(ダート8ハロン)に出走し1着。

1月28日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマリアハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅡ)に出走し、ミスブリオの2着に敗れた。

2月19日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマルガリータインビテーショナルハンデキャップ(ダート9ハロン・GⅠ)に出走し、グッバイヘイローを破り1着。アメリカGⅠに初勝利。

4月19日、オークローンパーク競馬場アップルブロッサムハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅠ)に出走し、グッバイヘイローを破り1着。

5月20日、ハリウッドパーク競馬場のホーソーンハンデキャップ(ダート8ハロン・GⅡ)に出走し、グッバイヘイローを破り1着。

6月17日、ハリウッドパーク競馬場のミレイディハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅠ)に出走し1着。

7月15日、ハリウッドパーク競馬場のヴァニティハンデキャップ(ダート9ハロン・GⅠ)に出走し1着。

9月2日、デルマー競馬場のチュラヴィスタハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅡ)に出走し、グッバイヘイローの6着に敗れた。

9月24日、ベルモントパーク競馬場ラフィアンハンデキャップ(ダート9ハロン・GⅠ)に出走し1着。

10月14日、キーンランド競馬場スピンスターステークス(ダート9ハロン・GⅠ)に出走し、グッバイヘイローを破り1着。

11月4日、ガルフストリームパーク競馬場ブリーダーズカップ・ディスタフ(ダート9ハロン・GⅠ)に出走し、レースレコードで1着。

エクリプス賞最優秀古馬牝馬に選出。


1990年

2月4日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマリアハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅠ※)に出走し1着。

※この年からGⅠに昇格。

2月18日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマルガリータインビテーショナルハンデキャップに出走し1着。

3月4日、サンタアニタパーク競馬場のサンタアニタハンデキャップ(ダート10ハロン・GⅠ)に出走し、ルールマンの10着に敗れた。

4月18日、オークローンパーク競馬場のアップルブロッサムハンデキャップに出走し、ゴージャスの2着に敗れた。

5月19日、ハリウッドパーク競馬場のホーソーンハンデキャップに出走し1着。

6月16日、ハリウッドパーク競馬場のミレイディハンデキャップに出走し1着。

8月4日、デルマー競馬場のサンディエゴハンデキャップ(ダート8.5ハロン・GⅢ)に出走し、クワイエットアメリカンの2着に敗れた。以降は牡馬混合戦に出走しなかった。

9月1日、デルマー競馬場のチュラヴィスタハンデキャップに出走し1着。

10月6日、キーンランド競馬場のスピンスターステークスに出走し1着。

10月27日、ベルモントパーク競馬場のブリーダーズカップ・ディスタフに出走。1番人気の3歳馬ゴーフォーワンドとのマッチレースとなったが、残り半ハロンでゴーフォーワンドは右前脚複雑骨折で転倒(予後不良)。バヤコアが連覇となる。

2年連続でエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選出。


1991年

ブリーダーズカップで精神的ダメージを負ったのか、バヤコアの強さは影を潜めた。

2月2日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマリアハンデキャップに出走し、リトルブリアンヌの4着に敗れた。

2月16日、サンタアニタパーク競馬場のサンタマルガリータインビテーショナルハンデキャップに出走し、リトルブリアンヌの4着に敗れた。

4月19日、オークローンパーク競馬場のアップルブロッサムハンデキャップに出走し、デジェネレートギャルの6着に敗れた。現役引退が決まる。

アレン・ポールソン所有のブルックサイドファーム(ケンタッキー州)で繁殖牝馬となった。産駒はまるで走らなかったが、娘たちは繁殖で好成績を挙げ、孫のフォートラーンドは2012年のブリーダーズカップ・クラシックに優勝している。


1997年

6月14日、ペンブルックファーム(ケンタッキー州)で蹄葉炎により死去(12歳)。


1998年

アメリカ競馬殿堂入り


関連タグ

87世代 競走馬 繁殖牝馬 アルゼンチン

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