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新田義興の編集履歴

2024-07-15 14:17:12 バージョン

新田義興

にったよしおき

南北朝時代に活躍した南朝方の武将。新田義貞の子で、歌舞伎演目「神霊矢口渡」でもその名が知られるほか、東京南部の新田神社に祀られる。

生没年 1331(元徳3/元弘元)年~1358(正平13/延文3)年


生涯

南朝方の有力武将・新田義貞の次男として生まれ、幼名は徳寿丸と呼ばれた。母が側室だったために重用されていなかった。湊川の戦い以後、北陸で戦う父や長兄・義顕とは離れて上野国新田荘に留まっていたが、1337年に奥州より北畠顕家が西上すると、これに呼応して少年の身ながら挙兵し、顕家の軍勢に加わる。顕家たちによって鎌倉を占領し、さらに西上し足利方を次々と破った。その後吉野後醍醐院に謁見して、後醍醐院は「尤も義貞が家を興(おこ)すべき人なり」として義興の名を与え、御前で元服。顕家が石津の戦いにて戦死した後はその弟・北畠顕信と共に京都を攻めるが、高師直に敗れ撤退した。それと前後して、長兄・義顕が北陸・金ケ崎城の戦いにて戦死し、それから間もなく父・義貞が越前藤島の戦いにて戦死する。


1338年9月、東国再建のために義良・宗良親王、北畠親房(顕家・顕信の父)らが下向することになり、義興は北条時行と共に後醍醐院から関東八ヶ国の平定を命じられたという。一行は伊勢から海路東国を目指すが、暴風雨に遭って船団は散り散りになった。この時、義興は北畠父子に同道していたらしく、武蔵国に流れ着き、その後はいったん親房らと別れて別行動をとる。


その後1341年の常陸合戦などで行動している記述もあるが、本格的に動き出したのは1350年に起きた観応の擾乱で、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵、1352年に宗良親王を奉じて弟・義宗、従兄弟・脇屋義治と挙兵し、鎌倉を一時占拠した。義興はその後も足利方を追って武蔵野の各地で戦ったが足利方の反撃にあって鎌倉を追われた。


足利尊氏が没した半年後の1358年、時期到来とばかりに挙兵、鎌倉を目指した。これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、部下の竹沢右京亮と江戸遠江守こと江戸長門にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、一方の江戸長門は甥とともに三百余騎を率いて、多摩川矢口の渡しを用いると踏んだ長門は渡し守に命じて義興が渡るであろう船に穴を開ける罠を仕掛けた。そして同年10月10日、義興と主従の家臣13人は、矢口の渡しで渡船中に襲撃され、殺害された。享年28だった。


なお、江戸長門、竹沢右京亮らは義興討伐後足利基氏のもとへ馳せ参じ、褒賞を受けてそれぞれ数カ所の恩賞地を拝領したが、その後まもなく江戸・竹沢両名が義興の怨霊により急死している。


『太平記』によれば現地の住民が非業の最期を遂げた義興の霊を慰めるために義興の墓の前に神社を建てて神として祭ったとされ、新田大明神として尊崇された。これが現在東京都大田区にある新田神社である。同神社境内にある義興の墓陵は今日に至るまで禁足地とされ、立ち入りは禁じられているほか、新田神社に参拝する前に、同じく非業の死を遂げた家臣を祀る十寄神社が近くにあり、そこに詣でてから新田神社に詣でなければならないといわれている。


なお、人形浄瑠璃歌舞伎の『神霊矢口渡』は、義興の最期と死後の話をもとにして作られている。東急多摩川線武蔵新田駅の「新田」は、新田義興と新田神社に由来する。


逃げ上手の若君

漫画『逃げ上手の若君』では義貞の三男(誤植?)として描かれ、新田家の嫡男として10歳に満たぬ年齢で出陣、北畠顕家(逃げ上手の若君)により北条時行とその郎党である逃若党に引き合わされた。

このとき、義興は10歳に満たぬ子どもということもあって、ためらうことなく亜也子にパフパフし、相手が子どもということもあって亜也子もとまどいつつもこれを受け入れていた。

詳細は新田徳寿丸(逃げ上手の若君)を参照。


関連タグ

南北朝時代(日本) 太平記 新田義貞

逃げ上手の若君 新田義貞(逃げ上手の若君)

新田徳寿丸(逃げ上手の若君)

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