政権発足まで
平成5年に日本社会党第13代中央執行委員長に就任。翌平成6年6月30日、自由民主党・新党さきがけとの「自社さ連立」により内閣総理大臣に就任した。いわゆる「五十五年体制」下で対立していた二大政党+1による連立政権、さらに発足時点では自衛隊を容認すらしていなかった政党の党首による「社会主義政権」の誕生は内外を驚かせた。
阪神・淡路大震災時
平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震による震災)時の首相であったが、初動において自衛隊出動(兵庫県庁からの出動要請は発生から4時間余りが過ぎた午前10時を回った頃になり、それまで本格的な活動ができなかった)等の対応に遅れを生じ、批判を招いた。
原因としては兵庫県庁の対応に不備があったこと、発生前夜に表面化していた党内紛争(新党結成を目指す議員の大量離党問題)の対応に気を取られていたことなどが挙げられたが、長年の野党暮らしから官僚機構を使いこなせなかった点やそもそも(この当時では)戦後未曾有の大規模な直下型地震による震災に対応する法的・行政的な危機管理対策自体がなされていなかったこともある。
発生3日後の20日には小里貞利(自民党)を震災担当相に任命し、復旧・復興に関する陣頭指揮を委ねた他、震災後の通常国会では被災者支援等に関する法案を成立させている。
全日空機ハイジャック事件
平成7年6月に発生した全日空機ハイジャック事件では史上初めてSAP(特殊武装警察)の投入を指示した。なお、同部隊の存在は翌平成8年まで公表されていなかった。
「村山談話」
終戦50周年にあたる平成7年8月15日、昭和初期における日本の戦争全体を「侵略」と位置付け、「反省」と「お詫び」の意を表明した。いわゆる「村山談話」である。
史実としても特定できず、確たる証拠もない「お詫び」であったが、この談話が後の歴代内閣のアジア外交に関する姿勢を決定づけ、縛りつけるようなものになってしまった。村山以降、いずれの内閣でも「村山談話」から脱却するような閣議決定はなされていない。
冷戦終結後に日本を襲った政治混乱の中で誕生したこの異常な談話は、平成24年現在でも政府の公式見解であり、憲法で保障された表現の自由まで制限するという言論弾圧の道具となっている。
ただし、それすら利用する変人もいたが…。
退陣後
平成8年1月、橋本龍太郎副総理(自民党総裁)に禅譲する形で退陣。平成12年に政界を引退した。
日本社会党最後の党首であり、現在の所「大正生まれ」「日本軍在籍経験のある」最後の総理大臣である。
引退後も「従軍」慰安婦への償い金の支給を目的とした「女性のためのアジア平和国民基金」の設立や莫大なコメ支援などをともなった北朝鮮訪問に関与しているが、これらの問題行動には賛否両論がある。
戦後政治の中では希少な「本人の意思と無関係に総理の椅子に押し上げられた」ケースであり、人柄について悪く言う声は少ないが上記の通り政権在任中の事績には難点も多くある。
「(特に政治家の)人柄と能力は別である」ことを体現した存在とも言えよう。
関連タグ
眉毛:トレードマーク。
竹下登:同年生まれ。総理就任時には諸般アドバイスを与えていたともいう。