出生
1922年8月2日、大阪市伝法町に生まれる。後に神戸へ転居。父は小さな薬屋を経営していた。
1942年に日本綿花に就職するも、時局の煽りを受けて1943年に戦地へ召集される。
敵から手榴弾で攻撃され、瀕死の重傷を負い死を覚悟したとき、神戸の実家で家族揃ってすき焼きを食べている光景が頭に浮かび、「もう一度、腹いっぱいすき焼きを食べたい」と思ったという。
この体験は、ダイエーの企業理念に多大な影響を与えることになる。
ダイエー誕生
復員後、1951年に弟が経営していた「サカエ薬局」で勤務。ノウハウを掴んだ後、1957年に大阪市旭区の京阪電車千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店「主婦の店 ダイエー薬局」を開店した。店舗面積僅か16坪、資本金400万円、従業員はパートが中心の13名と小さな船出であった。ここから顧客の要望を聞き、食料品販売へも進出していく。
絶頂期へ
1958年には神戸三宮に2号店を開店。その当時の物作りはメーカー主権の時代で、原価がいくらかかったから売価がこれだけという値付けがされており、そこに小売の介在する余地がなく、消費者は無視されていた。
「よい品をどんどん安く売る」を社是として掲げるダイエーは、定価を高止まりさせていたメーカーに対し、価格決定権をダイエー側が掌握して安売りを断行。消費者に主権を移させた事が特筆される。理解が得られない場合はプライベートブランド商品を開発し、既存メーカー(花王や松下電器は有名)と真っ向から対立するも、消費者側から絶大な支持を得る。ちなみに、プライベートブランド1号は「ダイエーみかん」であった。
1972年には三越百貨店を抜いて、小売業トップの座に君臨。1980年には小売業で初の売上高1兆円企業となる。その後も福岡ダイエーホークス、流通科学大学、ローソン、新神戸オリエンタルシティなどを次々と誕生させる。まさにダイエーの絶頂期であった。
中内自身も、1993年に流通業界出身者としては初めて勲一等瑞宝章を授与される。
没落
バブル崩壊により、経営が傾き始める。更に消費者のニーズが「安さから品質」へ変わっていったこと、中内の「私とコンピューターとパートがいればいい」という言動・姿勢から、ダイエーを支えた従業員らの人心が離れていった。
追い打ちをかけたのが、阪神淡路大震災である。神戸を本拠としていたダイエーは400億円もの甚大な被害を出して経営が大幅に悪化。1995年には256億円の赤字、1998年には258億円の赤字決算へと転落する。
経営が好転しないことから2001年に経営者から退くが、あまりにも遅い引退であった。
晩年
ダイエーグループから退いた中内は、自身が設立した流通科学大学の学園長として、時には学生へ教鞭を執るようになる。
1991年からは中国・ソ連へ現地の流通事情を学生と共に視察。「ハバロフスクの野菜はきゅうりとトマトだけだった」と、当時のソ連における流通事情を振り返っている。
2001年からは「中内ゼミ」を4期に渡って主宰し、93名の学生が巣立っていった。
2005年8月に脳梗塞で倒れ、9月19日、自身が生涯愛した神戸市において死去。83歳であった。