概要
『文豪とアルケミスト』に登場する「たiかiむiらiこiうiたiろiう」と「もiりiおiうiがiい」のカップリング
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史実・ゲームにおける二人の関係性
ゲーム
・2017年4月現在、ゲーム内での手紙の交換等は実装されていない。
史実
史実での二人の接点は明治30年、高i村i光i太i郎の東京美術学校入学から始まる。
明治22年より鴎i外は東京美術学校で教鞭をとっており、入学した光i太i郎は審美学を教わっていた。
この間の個人的な接触は不明。
余談だが、光i太i郎の父、光i雲も同年明治22年より東京美術学校講師となっている。
明治42年、光i太i郎の帰朝祝いが精養軒で開かれ、鴎i外も出席している。
これが、記録上での個人的な接触の最初となる。
(鴎i外の日記では「開きて」とあるため、あるいは主催側の可能性もあるが、招待状が出されている)
その数日後には光i太i郎が与i謝i野i鉄i幹らと共に鴎i外邸を訪れている。
観i潮i楼i歌i会には光i太i郎も一度だけ出席しており、その後も鴎i外は招待状を出し続けているが、光i太i郎は全て用事があるとして断っている。
その他にも鴎i外が、光i太i郎が言ったという痛快な悪口を談話に書いた際には、光i太i郎がそれについて弁明し、対談したことを鴎i外は再度談話として書き残している。
また、陸軍軍医総監であった鴎i外が便宜を計り、光i太i郎の徴兵を免除とさせた。
スバルに光i太i郎が載せた観i潮i楼i安i置i大i威i徳i明i王i図という鴎i外の風刺画を鴎i外が面白がったというエピソードが残っている。
それ以外にも、光i太i郎の回想では鴎i外と度々建築や美術の議論をしたそうである。
二人の最期の接触は大正11年7月9日、鴎i外の通夜となる。
このとき、光i太i郎も棺守の一人として参加している。
翌10日の新聞には、光i太i郎が美術学校時代の鴎i外について語った話が掲載されている。
後年、光i太i郎は鴎i外に関して「尊敬はしていたが、服すことはなかった」と述懐している。
蛇足にはなるが、
鴎i外が観i潮i楼に移り住んだ明治25年に高i村家も徒歩10分程度の場所に移り住んでおり、後に光i太i郎が構えたアトリエも観i潮i楼から15分程度の場所であった