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児島高徳

こじまたかのり

太平記に登場する南北朝時代の南朝側の武将。姓は三宅、通称は備後三郎。
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概要編集

備前(岡山県)の人。

太平記』によれば、高徳は南朝の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇鎌倉幕府討伐の挙兵(元弘の変)に加わり、翌年、同天皇が幕府に捕らわれて隠岐に流されるのを救出しようとしたが果たせず、以後、朝廷方の武士として活躍、各地を転戦した。

鎌倉幕府を打倒し、足利尊氏が朝廷から離反してからも、朝廷に仕える武士として活躍、しかし、足利尊氏の軍に敗れ、最後は信濃に逃れて出家したとされている。


白桜の十字の詩編集

児島高徳は、後醍醐天皇の奪還に失敗した際、院ノ庄(岡山県津山市)の行在所の庭に潜入し、桜の幹を削って「天 勾践(こうせん)を空しうする莫れ/時に范蠡(はんれい) 無きにしも非ず」と書きつけたと伝えられる。

このは越王勾践を後醍醐天皇に、范蠡をみずからにたとえ、忠心を示している。



児島高徳は実在?架空?編集

古くから南朝の忠臣として讃えられてきたが、具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために架空の人物とする説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説や、高徳を地元の山伏勢力出身と見る説もある。

(斜体文字部Wikipediaより抜粋)


現に、作家・井沢元彦氏は自著「天皇になりたかった将軍」および「逆説の日本史」にて、「太平記の編者とされる小島法師が自らを客演させた姿こそ児島高徳である(大意)」とする説を提唱している。


実際、前述の「白桜の十字の詩」のくだりにしてもいろいろと突っ込み処があり(奪還作戦に失敗したのに悠長に木の幹を削って墨書していれば自分が捕まってしまう、一連の工程を手早くかつ隠密裏に終えたとしても『侵入者の痕跡』が見つかる事で幕府側の警戒を促し、結果的に反幕府勢力の足を引っ張ってしまう、など)現代人の感覚からは歴史的事実とはにわかに考えにくい。


また「具体的な活動を示す文献が『太平記』以外にはない」事と併せて考えれば、『太平記』を歴史書というよりも軍記物語とみる現在において、三国志演義周倉と同様に「作者および読者の感情移入のために創造されたキャラクター」との疑惑の余地が出て来るのも無理からぬ事であろう。


関連タグ編集

南北朝時代 太平記


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