生涯
生没年:、享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日)
出身地:江戸牛込地区
1723年、福岡藩士の子として生まれるが、幼少期に両親と死別し、母方の親戚・宮田全沢に引き取られる。全沢は淀藩(現在の京都府京都市伏見区)の漢方医で、良沢曰く「天性の奇人」であったという。全沢は良沢に「学問は世の中の人が捨てて顧みない物こそ力を入れなさい。知識や技術は失われやすく、失って初めて、それらの価値や重要性に気づくのだから」と説いた。
やがて良沢は親戚の中津藩医・前野東元に養子入りし、東元亡き後前野家を継いだ。さらに、当時非常識とされた吉益東洞流医学を学び、その傍らで一節切という竹簡楽器と猿楽の練習にいそしんだ。
そうして、良沢に転機が訪れる。ある日、良沢は同藩の知人からオランダ語の書かれた紙片を見せられたが、その意味が理解できなかった。良沢は「人間が書いたものを理解できないということはないはずだ」という思いを抱き、蘭学への道を志した。
1769年、『和蘭文字略考』の著者で知られる青木昆陽に出会い、昆陽に師事したのち、長崎に赴いてオランダ通詞吉雄幸左衛門(耕牛)・楢林栄左衛門・小川悦之進らに教えを乞うて学び、『マーリン字書』や解剖書『ターヘル・アナトミア』などを購入して江戸に帰った。
1771年、『ターヘル・アナトミア』解読の一環として、杉田玄白や中川淳庵とともに、小塚原にて死刑囚の死体の腑分けを観察し、『ターヘル・アナトミア』中の図の正確さを確認し、中津藩邸内の良沢役宅で解読・翻訳作業を開始した。良沢・玄白・淳庵の3人の中で良沢が最年長であったため、良沢が盟主となり、自作の和蘭事典『蘭訳筌(せん)』を用いて苦心の末、『解体新書』全5巻を発刊するに至った。
しかし、良沢はこの『解体新書』に自身の名を出すことを拒否した。それは、当時自身の翻訳に対して、「正確さに欠ける」として妥協を許さなかったためである。また一説としては、蘭学に対して幕府が制限をかけており、万が一の際に、最も蘭語に詳しい良沢が逮捕されないように玄白と淳庵が取り計らったともされる。玄白は自身の著書『蘭学事始』に良沢の名を記したものの、このころの良沢はほとんど無名の人であった。
また、良沢は中津藩士であったにもかかわらず、『解体新書』解読中は藩主のもとに出仕できなかった。これがもとで、かつての同僚からは陰口をたたかれ、藩医の中には「良沢を免職にしてください」と藩主にかけあう者が出ていた。しかし、藩主・奥平正鹿は蘭学に興味を示し、良沢の蘭学へのあくなき探求心を高く評価し、「蘭化」、いわゆる「オランダの化け物」とあだ名して良沢を厚遇したという。
『解体新書』発刊後は、蘭語研究や蘭書翻訳に専念した。著書に天文書『翻訳運動法』『測曜璣(ぎ)図説』、交流のあった最上徳内に取材して執筆した『東砂葛記』、ロシアの歴史書の『魯西亜(ロシア)本紀』『魯西亜大統略記』や『和蘭築城法』など、後半生は蘭学の普及に命をささげたのであった。このころ、大槻玄沢や江馬蘭斎などにもオランダ語や西洋医学を指導している。彼らはのちに蘭方医として歴史に名を残している。
また、「寛政の三奇人」の高山彦九郎や林子平、工藤平助や前述の最上徳内など、多くの学者と交流した。
1803年11月30日に自邸にて死去した。享年80歳。晩年は加齢による眼病や中風に苦しんだが、オランダ語研究の熱意は生涯衰えなかった。
『解体新書』に自身の名前を記さなかったことにより、一時良沢の事績は注目されていなかった。しかし、明治時代になって旧中津藩士・福沢諭吉や大槻玄沢の子孫により顕彰活動が行われ、1893年、良沢には正四位が贈られた。