工藤平助
くどうへいすけ
生没年:享保19年(1734年)- 寛政12年12月10日(1801年1月24日)
肩書:仙台藩医、経世思想家
紀伊藩の医者の家に生まれる。数え年13歳で仙台藩医の工藤安世の養子となる。
幼少期は養父に医学を教わったわけではなく、『大学』を朝に3度講義され、それをその日のうちに自主学習して翌朝には質疑応答にすべて答えることができるまで暗記させられた。これによって、ほとんどの漢籍をわずか3ヶ月で読めるようになったという。
医学を実父の長井基孝や当時著名だった中川淳庵、野呂元丈らに師事し、漢学は青木昆陽、服部栗斎らに師事した。蘭学については、杉田玄白・前野良沢より手ほどきを受けている。この他にも、長崎オランダ語通詞の吉雄耕牛や桂川甫周(4代目)、大槻玄沢らとも親交が深かった。
商才にも優れ、オランダ語通詞と結託して舶来品を売って巨利を得ている。
特に大槻玄沢は親族の義を結んでおり、平助は彼を仙台藩医に推薦しただけでなく、ともに領内の医薬品を研究している。
1783(天明4)年には老中・田沼意次にロシアとの交易を主張するため『赤蝦夷風説考』を提出した。『赤蝦夷』とは北海道に住んでいるロシア人のことを指す。
これは江戸時代における海防論のさきがけで、林子平や本多利明の先鞭をつけたといえる。
これにより、田沼は蝦夷地開発に意欲を示し、3班編成で蝦夷地調査を実施した。この頃には、平助が幕臣として正式に登用され、ゆくゆくは蝦夷奉行に就任することが噂されていた。
後に林子平は平助に師事し、国防論に刺激を受け、自らの著書『海国兵談』に序文を寄せることを要請している(当初は平助はこれを断ったが、再三に渡る説得により承諾)。
1785(天明6)年には時の将軍・徳川家治が亡くなる。これによって政治的後ろ盾を失った田沼が松平定信により失脚させられ、蝦夷地調査も中止となった。このことで、自動的に平助の蝦夷奉行就任の話も立ち消えとなった。定信の寛政の改革のもと発令された寛政異学の禁の影響で、林子平が出版していた『海国兵談』も版木を没収されて発禁処分となり、子平自身も幕府より仙台蟄居を命じられている。
これ以降も平助は江戸で医師としての活動は続行している。
寛政9年(1797年)には医書『救瘟袖暦(きゅうおんそでごよみ)』を著した。これは熱病を様々な症状のタイプに分類し、それぞれの適切な治療法を記した教科書である。
同年の7月には藩主の生後10ヶ月の次男が熱病により一時重体に陥ったが、平助の賢明な治療で一命を取り留めることができた。この功により平助は、藩から白銀5枚、縮面2反を賜ったという。
寛政12年12月10日(1801年1月24日)死去。享年67。