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解説編集

鎌倉時代、宇都宮氏により地蔵ヶ岳城として築城されたのが始まりとされる。

なお、当時はこのあたりは「大津」と称されていた。

その後小早川、戸田氏を経て1595年に藤堂高虎が入城。

江戸時代に入ってから本格的な近代城郭として改修が行われた。

高石垣を築く際工事が難航したことからくじびきで「おひじ」と言う女性が選ばれ、彼女の遺言により城下の川を「肱川」と名付けたという伝説もある。

藤堂高虎が津へと転封となった後、淡路の洲本藩より脇坂氏が入城することとなる。

この際、天守が築かれたとされる。

天守は「洲本城から移築された」という説がありそこから「大津⇒大洲」になったのではないか?と言われる。

脇坂氏転封の後、加藤貞泰が入城。

お家騒動などもあったものの幕末まで存続することとなる。

ちなみに大洲藩は幕末の頃早くから「勤王」を掲げており、坂本龍馬の海援隊が所有していた船「いろは丸」も大洲藩預かりだったとされる。

2002年には天守が当時の工法、技術で完全木造で復元された。

ただし現在の建築基準法ではこの高さの木造建築は認められないため、2年と言う時間を擁して法の適用除外を勝ち取ることとなった。

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