孤独じゃないグルメに関する言説
(中略)
大意としては複数で食事を摂る事であるが、それは単に「食べる」という行為以上に、それを以て共同体への参加を許可(もしくは帰属を表明・強化)するといった社会的意味が付与された儀礼としての側面も有するのである。
だがしかし、ただ複数人で食事を摂ればそれが幸福足り得るのだろうか?
今夏、私は数名の哀れな同僚と共に上司の嫌味とアテツケを聞きながらうなぎ丼を食すという機会に恵まれたのだが、その食事はまるで新聞紙を丸めたような味がしたものである。
眩しかった日のこと…あの夏の日のこと。
(中略)
ならば、例え冷えた握り飯だろうと隣にいる誰かが「おいしいね…赤くないほうがおいしいね」などと言いながら微かに微笑んでくれたのであればそれは何物にも勝る食事となるのではないのだろうか?
先人の言によれば食事とは救われてないなければならないらしい。
果たして救われているのは一体どちらであるか。これは思考の必要がない問である。これは今眼の前で「ワン」と啼いた毛むくじゃらの生物が犬であるか猫であるか、それとも或いはメルマック星人ではなかろうか?などと煩悶するよりも明らかな問なのである。ならば我々は数学者マーク・カッツ博士の如く、ただ「自明である」と答えれば良い。
しかしながら、社会的な生物である我々は過日の私のような状況に否応なく放り込まれる機会が多々あるものである。その際にかの上司の頭上に鎮座している、毛根と物理的な連続性を失ったそれを杯に戦国の傾奇者の如く酒を煽る、といった行為が許されないのであるならば、ただ伏して泥のような食事を食み続けるしか無いのである。それを厭うからこそ我々は孤独飯主義者の会と称し「孤高の食事こそが至高の行為である」などという妄言を吐くようになったのだ。
(中略)
話を元に戻そう。結論である。つまり、複数人にて食事を摂る際に重要なのはその人数や食事内容などではなく、「誰と食べるか」という事なのである。それは、心を許した相手と食すその行為自体こそが最上の「グルメ」であるという事を意味し、それこそが我々孤独飯主義者が求める幸福なのではないのだろうか。
【孤独飯主義者の会 (2011). 赤くないおにぎりを一緒に食
べよう 飯の一粒, 冬号, 12-17. より一部省略の上抜粋】