概要
1917年(大正6年)、山梨県東山梨郡山村(現在の甲州市勝沼町山地区)の農家、小佐野伊作・ひらの夫妻の長男として生まれる。
家は貧しく、小学校の頃から新聞配達をしながら1931年(昭和6年)、東山梨郡東雲村(当時)の東雲尋常小学校高等科を卒業。
1933年に上京し、自動車部品販売店へ就職。勤務態度は非常に真面目で3年で店を取り仕切り、後別の店に引き抜かれて業績を上げたが翌年に倒産の憂き目にあう。
当時としては大きい170cmのがっしりした体躯を持っていたこともあって1937年(昭和12年)、徴兵検査に甲種で合格、1938年(昭和13年)、大日本帝国陸軍に入隊し中華民国で服務。戦地では右足に銃弾を受け負傷し、さらに同年年末には院内でマラリアと思われる急性気管支炎を発症したために内地送還される。
1940年(昭和15年)に再び上京した小佐野は東京トヨタ自動車に入社、商売を学ぶと同年に東京・芝区(当時)に自らの自動車部品会社、「第一商会」を設立、軍需省からの受注に成功、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)には軍需省の民間無給委託(高等官二等で佐官待遇)となった。
敗戦直後、駐留外国人相手の事業で成功。また経済活動が停滞し現金が不足する最中、東武鉄道の根津嘉一郎と東急グループの五島慶太が、小佐野にそれぞれ熱海ホテル、山中湖ホテル、強羅ホテルの売買を持ちかけたのがきっかけにホテル経営に乗り出し、先行き不明だったこれらの観光資産を買収した。
これがきっかけで五島と知遇を得て、1946年には東京観光自動車と東都乗合自動車を東京急行電鉄から譲り受けてバス事業に進出。
翌1947年(昭和22年)、社名を「国際興業」とした。同年、旧伯爵家(旧下総佐倉藩堀田家)堀田正恒の令嬢・堀田英子と結婚している。
1948年(昭和23年)、小佐野はガソリンの不正使用の疑いで、当時日本を占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって逮捕され、同年9月重労働1年、罰金74,250円の有罪判決を受けた翌1949年(昭和24年)3月に仮釈放されるまで服役した。
その後も小佐野は精力的に事業を拡大、1950年(昭和25年)には長岡鉄道(現在の越後交通)のバス部門拡充への協力を機に、当時同社社長だった後の内閣総理大臣・田中角栄との親交を深めた。
またハワイの観光資源にいち早く注目してワイキキの名門ホテルを多数手中にするなどして、「ホテル王」と呼ばれたこともある。
1976年(昭和51年)2月16日、ロッキード事件に絡み、衆議院予算委員会に第1回証人として全日空の若狭得治社長、渡辺尚次副社長とともに出頭し証人喚問を受ける。
国会での証言が偽証罪(議院証言法違反)に問われ1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決(判決言い渡し翌日には控訴)。
この証人喚問で小佐野が繰り返した答弁「記憶にございません」は当時の流行語となった。
だが正確な答弁内容は「記憶『は』ございません」「記憶『が』ありません」などの繰り返しであったという。
係争中の1985年(昭和60年)に帝国ホテル会長職に就任。
1986年(昭和61年)10月27日、入院先の虎の門病院で死去。小佐野は膵臓癌の手術を受けていたが、直接の死因はストレス性潰瘍だったという。
(夫婦に子はなく、小佐野に3人弟がいたが真ん中の2人は若くして亡くなっている。)
のちの内閣総理大臣・田中角栄との関係が「刎頸の友」と言われる(実際は田中も小佐野も自分から言ってはいない)など有力な政商として知られ、政財界と暴力団の橋渡しを行っているなどとの噂から、「裏世界の首領」、「黒幕」などと揶揄されることもあった。
しかし実業家としての小佐野の経営手法の中心は徹底した現場主義と、不採算部門の大胆な整理で、山梨交通など倒産寸前だった数多くの企業の再建に成功し、その際には「首切り」をしないことで知られた。
また、貧農から叩き上げで身を起こした人間らしい腰の低さで、物静かで温厚な紳士であったという。
遺産のうち美術品は美術館に寄贈され、また山梨県の発展を目的とした小佐野記念財団が設立されている。