概要
20年間日本に滞在し、最も聖徳太子の信頼を受けていた渡来系僧侶。
595年に来日してきた慧慈の見識と人間性は、聖徳太子の心を打ち、師と仰いだ。
聖徳太子への支援で、仏教教典の研究会を創設。また仏教教典の注釈書の作成を推進した。
615年に高句麗へ帰国。
622年に聖徳太子の訃報(ふほう)を聞き、天を仰いで慟哭した後、
聖徳太子の供養を己でした慧慈は、
「来年の太子の命日にわたしも往生する、
太子と共に浄土で衆生(生きる全てのもの)を救いたい」
そう言って、翌年の聖徳太子の命日ピッタリに亡くなったという。