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断善修悪の怪腕

だんぜんしゅあくのかいわん

「断善修悪の怪腕」とは、東方Projectに登場する「茨木童子の腕」の二つ名である。
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概要編集

東方Projectに登場する「茨木童子の腕」の二つ名。

文字通り一本の「」である「茨木童子の腕」が、とある場面で仮の姿をとった際のものである。


また『東方茨歌仙』第四十九話前後編のタイトルともなっており、これは第五十話相当の最終話の直接の前段にあたる。

『茨歌仙』作画担当のあずまあやによれば、同話はZUNから受け取った原作プロットの情報量が膨大であったために前後編に分けた、というエピソードも持つ(あずまあや、2月14日ツイート)。


作中での詳細などについては「茨木童子の腕」記事の他「奸佞邪智の鬼」記事を参照。ただし両記事は共に、主に『茨歌仙』のエピソードに関するネタバレが含まれるため、原作を手に取っていない場合などは閲覧は推奨されない。


「断善修悪」編集

「断善修悪」とは、四字熟語の「断悪修善」(だんあくしゅぜん、またはだんなくしゅぜん)を基にした語か。「断悪修善」とは、悪しき行いを断ち、善い行いをすることを指す語で、仏教では「全ての悪を断ち、善を修める」というニュアンスでも用いられる(参考1・参考2)。

仏教での語としては「止悪修善」。こちらは大乗仏教における「三聚浄戒」(さんじゅじょうかい)のうちの二つ(戒めによって律し悪を防ぐ「摂律儀戒」が「止悪」・「断悪」、自ら積極的に善を行う「摂善法戒」が修善)にも類する(参考3)。


一方で善悪の行いへの志が入れ替わった「断善修悪」の場合は善い行いを断ち、積極的に悪行を成すといった意味合いとなるか。

茨木華扇によれば「茨木童子の腕」には「 邪気 」が籠っており、ため込まれ流れ出した積年の「 邪気 」は作中以前、あるいは作中において実際に邪悪な意思として具体化されている(こちらも「奸佞邪智の鬼」記事を参照)。


なお、先述の「三聚浄戒」のもう一つは人々(衆生)を護りその利のために尽くす(あるいは教え導く)という「摂衆生戒」であり、こちらは旨とする宗教こそ異なるものの、「 天道 」を往き人間の力となり、時には教え導き救済の手を差し伸べる仙人である「茨華仙」としての「道」と一致する。

他方でその思想が「断善修悪」として華扇と逆転している茨木童子の腕においては、人間は食らう対象であり、暴虐と恐怖、そして博麗霊夢をして「 出鱈目 」と評される程の暴力をもって圧倒することがその精神の志向するところである。


「善人と聖人と大悪党」編集

「善」と「悪」の両端な二元構造はこれ以前にも華扇の文脈で見られており、例えば華扇はとある経緯で地上に溢れ出た地獄の怨霊を右手で捕らえて「地上に住まうことのできる存在は何か」と問いかけ、「 地上に生きられるのは善人と聖人とそれと大悪党だけだ 」として地上は「 ただの罪人 」ごときが存在いしてよい場所ではないとして怨霊を握りつぶしている。


ではその地上に生きる華扇自身は「 善人と聖人とそれと大悪党 」のいずれであるのかという点がその身に帰ってくる問いであるが、華扇においては「 最強の人攫い 」・「 幻想郷最強の人間の敵 」(いずれも稗田阿求評、「幻想郷縁起」、『東方求聞史紀』)とも評され人間の視点からは「大悪党」の性質も備えたとある属性と、人間と共にあり人間を教導する仙人あるいは自らのかつての邪悪に立ち向かい乗り越えようとする「善人」・「聖人」という両方の属性を持つ存在であったことが『茨歌仙』最終話に至る物語において語られたものとなった。


霊夢などは普段の華扇を「 良い華扇 」、「腕」が華扇の姿を成した状態(影華扇)を「 悪い華扇 」とし、さらに両者が融合した存在の中に二つの華扇の心性があることも理解するなど、華扇との対峙を通して華扇の多面性を了解して自らのなすべきことは何であるかを見出し、迷いを振り切っている。


関連タグ編集

東方Project 東方茨歌仙

茨木童子の腕


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