プロフィール
名前 | 松田昌子 |
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身長 | 不明 |
年齢 | 不明 |
誕生日 | 7月1日 |
原隊 | 扶桑皇国海軍 |
所属 | 第508統合戦闘航空団「マイティウィッチーズ」 |
階級 | 少尉 |
使い魔 | 不明 |
固有魔法 | 不明 |
使用機材 | 山西航空機 紫電一一型 |
使用武器 | 不明 |
イメージモデル
名前:杉田庄一(1924-1945)
撃墜数:120以上
通称:「闘魂の塊」
愛称:「杉さん」
その他:第204航空隊の最多撃墜数保持者として知られる。新潟県出身。
1940年6月、横須賀海兵団に入団、翌年4月に第3期丙種飛行予科練習生を卒業し第17期飛練過程に進み、大分航空隊で戦闘機専修延長教育を受けた。
1942年4月、第6航空隊に配属され、木更津基地で練成訓練に当たった。ミッドウェー海戦に参加し、占領後の同島進駐部隊として輸送船慶洋丸に乗船したが、大敗による作戦中止のため本土に帰還。
同10月、ソロモン航空戦加入の為ラバウル、次いでブーゲンビル島ブイン基地に進出。◾同12月1日、ブイン上空迎撃戦でB-17を神田飛長と共同撃墜し初戦果。ソロモン、ラバウル、東部ニューギニアを転戦し戦果を重ねた。
1943年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官の前線視察に6機の零戦による直掩戦闘機隊の1機として任務に当たり、ブイン上空でP-38と交戦し1機を撃墜するも、山本長官機は撃墜されてしまった(海軍甲事件)。この後、ガダルカナル島攻撃、ツラギ、ルンガ泊地攻撃、ルッセル島攻撃、レンドバ攻撃、船団護衛、ベララベラ攻撃、ブイン迎撃戦等に参加、8月26日にショートランド島東南海上で約20機のF4Uと交戦し被弾、落下傘降下で脱出するも全身火傷の重症を負いラバウル第八海軍病院に入院、後本土に送還され横須賀、舞鶴海軍病院で治療に務めた。負傷回復後は大村航空隊に勤務し飛練35期の教員を務め、在職中坂井三郎飛曹長と共にソロモン戦域での最多撃墜記録保持者として表彰された。
1944年3月、第263航空隊に転属しカロリン諸島、マリアナ、ペリリュー島を転戦、同7月8日、重松康弘大尉率いる零戦6機でパラオに向かう途中のヤップ付近でVF-31のF6Fに迎撃され、ただ一人生き残りペリリュー島に逃れた後、第263航空隊の解隊に伴いダバオに後退し第201航空隊に編入。
本土帰還後の1945年1月、第343航空隊戦闘301飛行隊に転属、松山基地で紫電改の練成に当たり、3月19日に松山上空迎撃戦に参加。
同4月以降の沖縄作戦開始以降は鹿屋基地に進出して沖縄航空戦に参加。
4月15日、迎撃のため鹿屋基地を離陸中にVF-46所属ロバート・ウェザラップ少佐搭乗のF6Fに奇襲攻撃され墜死。死後二階級特進し少尉。
人物像
ネウロイ侵攻以後に軍に入った若手だが、その腕前は扶桑海軍でもトップクラスで、多数のネウロイ撃墜を果たしている。さながら研ぎ澄ました扶桑刀のような切れ味の空戦技能と、殆ど後ろを見ず真っ直ぐに敵に突き進む戦法は、見る者に無謀さを感じさせる程であった。この戦法を危み、環境を変える事で余裕を持たせようと考えた雁淵大尉により、第508統合戦闘航空団に推薦された。雁淵大尉と同部隊に配属され、紫電一一型の習熟訓練中だった。第508統合戦闘航空団に配属されて後は2人1組のロッテ戦法を行うようになり、更には2番機として長機を守る任務に就いた為、無謀な行動は影を潜めるようになっていった。