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概要編集

1958年夏、マナセプロダクション社長にスカウトされ、同年秋に上京。翌年には、いきなり水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の専属ヴォーカル・シンガーとなり、1959年12月には「日劇ウエスタンカーニバル」に初出場する。


1960年6月、イタリアの歌手ミーナの「月影のナポリ」(Tintarella di luna)の日本語カバーで東芝レコードからデビュー。異例の早さで同年の『第11回NHK紅白歌合戦』に初出場を決めた。


続く1960年代前半に洋楽のカバー曲(和製ポップス)を中心としたヒット曲を連発。さらに「じんじろげ」「パイのパイのパイ」など、コミカルなイメージをベースとした面白ナンセンスな歌謡曲でも数多くのヒットソングを飛ばす。中でも1961年の「じんじろげ」は、その年の流行語にもなった。


1962年7月、所属事務所のマナセプロダクションとの契約満了により突然独立し、20歳で自分の事務所を設立。事務所独立と同時に森山の人気は急降下した。


その後、テレビやラジオには出演せず、地方への営業を行っていた。


1968年、水原弘に「もう一度メジャーでやってみないか」と励まされ、1969年に社長業に終止符を打ち、新事務所とコロムビアレコードと契約。1970年1月に「白い蝶のサンバ」を発売した。この曲でこの年の『第21回NHK紅白歌合戦』に、8年振り4度目の出場。


続く「ふりむいてみても」「花喰う蟲のサンバ」もスマッシュヒット、1972年にはマネジャーと結婚。その後も、舞台やショーで歌手として活動した。


2019年3月6日、大腸癌のため78歳で死去した。

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