概要
(1904年10月11日 - 1970年1月7日)。
「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で国民的喜劇俳優として活躍した。
1919年(大正8年)に浅草オペラの「根岸大歌劇団」の俳優・柳田貞一に弟子入りし浅草・金竜館にて初舞台を踏む。
トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士の徳川夢声や生駒雷遊らと「笑の王国」を旗揚げさせのち松竹に所属、さらに東宝に移籍して有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。
東宝の前身である、トーキー専門会社・ピー・シー・エル映画製作所の映画にも出演。その第一作『エノケンの青春酔虎伝』(監督は日活から迎えた山本嘉次郎)は、トーキー初期のヒット作となった。
1936年(昭和11年)にポリドール専属の歌手となり、多くの曲を吹き込んでいる。
ミュージカル風に話が進行するエノケン映画は、日中戦争が激化し、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年(昭和15年)まで、ほぼ年に3〜4本は制作された。
しかし、同年末の対英米開戦などの第二次世界大戦の激化によってコメディ映画の制作数は激減し、その他の映画においても国策に賛同する役柄を演じさせられることが多くなり、そのキャリアと人気は停滞を余儀なくされた。
終戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務めたが、同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作となった。
舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因で脱疽を発病。1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、足の指を切断することになった。
その後は主に舞台に活躍の場を移し、1954年(昭和29年)には古川ロッパ、柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。1960年(昭和35年)には、56歳で紫綬褒章を受章した。また、同年に第5回テアトロン賞を受賞。
その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。1966年(昭和41年)には芸術祭奨励賞受賞。
1970年(昭和45年)1月7日の午後2時50分頃に肝硬変により死去した。65歳没。