笠置シヅ子
かさぎしづこ
誕生から戦中まで
本名は亀井静子、1914年(大正3年)8月25日に香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)で誕生。大阪へ養女としてもらわれていき、小学校卒業後、1927年(昭和2年)に「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)を受験し合格、娘役・三笠静子の芸名で『日本八景おどり』で初舞台を踏む。1935年(昭和10年)、崇仁親王が三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのは恐れ多いと笠置シズ子に改名、1938年(昭和13年)帝国劇場で旗揚げした「松竹樂劇団」(SGD)に参加。服部良一と出会う。のちに服部と組んでジャズ歌手として売り出す。1941年(昭和16年)にSGDが解散してからは「笠置シズ子とその楽団」を結成して慰問活動などを行う。その一方、『弥次喜多大陸道中』に映画初出演し、坊屋三郎、益田喜頓らと共演する。服部良一によってコロムビア専属に迎えられ、「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌うシヅ子のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の三尺(約90cm)前後の範囲内で歌うことを強要されるなどの辛酸をなめた。
日中戦争から第二次世界大戦中は活躍の場が限られシヅ子はその専用楽団を率いて巡業や慰問に活躍した。戦後にヒットした「アイレ可愛や」はテーマを南方にしたことによって難を逃れたステージ用に作られた楽曲で、シヅ子は兵隊や軍需工場の慰問で好んで歌っていた。
戦後から歌手引退まで
1945年(昭和20年)11月、再開場した日本劇場の最初のショーから出演する。1947年(昭和22年)の日劇のショー『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った、服部良一作曲(シヅ子の歌曲のほとんどを手がけた)の『東京ブギウギ』が大ヒットした。以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギー』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれる。美空ひばりが登場するまでスーパースターとして芸能界に君臨した(ひばりはシヅ子の物真似で有名になった)。
シヅ子のステージは派手なアクションと大阪仕込みのサービス精神にあふれ、歌を重視する当時従来の歌手と異なり、斬新なものであった。「ヘイヘイブギ」ではシヅ子が「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、文字通り舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げ、「ホームラン・ブギ」では高下駄で応援団長の扮装で登場、勢いあまって客席に転落。「買物ブギー」を歌うときは熱演のあまり、履いていた下駄がいつも真っ二つに割れてしまうほど。そんなシヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けている。紅白歌合戦にも4回(S27年始、28年始、28年末、31年末)出場している。
歌手廃業以後
その後、1957年(昭和32年)あたりにシヅ子は歌手廃業を宣言。その理由については後年、テレビの対談番組で「廃業の理由は『太りかけたから』だった」と告白。昔と同じように動けていれば太るはずはない、太ってきたのは動けていないから、という。「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自分の手で汚す必要はない」とも語っている。芸名も苗字を取ってシヅ子と改め、女優活動に専念、得意の大阪弁を生かした軽妙な演技で多くの作品に出演する。また、1967年(昭和42年)からは、TBSの人気番組『家族そろって歌合戦』の審査員、1971年(昭和46年)からは、カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれた。
1985年(昭和60年)3月30日に卵巣癌で死去。70歳没。病床で自分の役をテレビで演じている研ナオコを見ながら「日劇時代は楽しかったね」とポツリと呟いたのが、シヅ子の最期の言葉だったという。