概要
1416年、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹(馬場氏)が江戸通房に敗れ、馬場氏から江戸氏に城主が変わる。以後、江戸氏は主家である佐竹氏と対立するようになる。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征討の際に、佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられたことで勢いをつけ、佐竹義重・義宣父子は馬場城に篭城する江戸氏を攻め、当時の馬場城主であった江戸重通を敗走させた。
義宣はそれまでの居城であった太田城から馬場城に本拠を移し、大改修を行い城名も「水戸城」に改めた。(これが水戸城の始まり)
しかし、佐竹義宣は1600年の関が原の戦いにて曖昧な態度をしたため、1602年に徳川家康により水戸から追放され、出羽国秋田に移された(久保田藩)。同年に徳川家康は十男の徳川頼宣(徳川光圀の父)を20万石で入城させた。(これが水戸徳川家の始まり)
天守は無く、破風などの飾りの無い三階櫓を二の丸にあった。城郭には石垣が無く、すべて土塁と空掘で構成されていた。徳川御三家の居城であるにもかかわらずかなり質素なつくりをしており、尾張藩の名古屋城、奇襲藩の和歌山城と比べるとその差は歴然。これは防衛上の重要性が無く、城郭よりは政庁としての性格が強かったことと、水戸徳川家の質素な性格が現れていたためとみられる。
1869年に天狗党の乱の舞台となり、多くの建物が焼失した。1871年、廃藩置県により廃城。1945年、水戸空襲で、御三階櫓は焼失、以後再建されていない。
現在、城跡には茨城県立水戸一高校、水戸三高校、水戸市立水戸二中、水戸市立三の丸小学校、茨城大付属小・幼稚園が建っている。
平成に入ってから水戸市によって城郭の整備計画が策定され、2020年に大手門、二の丸角櫓などが復元された。