日田彦山線の彦山駅と筑前岩屋駅の間にあった踏切。通行すると踏切が爆発するとかそういう危ない代物ではなく、過去にこの近くで起きた事件に由来する。
事のあらまし
1940年代、小倉方面から添田駅までが添田線、添田駅から彦山駅までが田川線、夜明駅から宝珠山駅までが彦山線と呼ばれ、彦山駅と宝珠山駅の間が鉄路で結ばれる前の事。この区間には二又トンネル、吉木トンネル、釈迦岳トンネルの3つのトンネルが建設される計画で、二又トンネルと吉木トンネルは距離が短かったので完成したものの釈迦岳トンネルは非常に距離が長く(4380m)太平洋戦争の激化で工事が中断していた。
添田線の沿線には軍需施設が多くあり、陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所が1944年6月の空襲で焼失してしまった。そこで新たな火薬の保管場所を探した結果、二又トンネルと吉木トンネルが火薬保管庫として適切であると判断が下った。これによって同年7月から翌1945年2月まで彦山駅まで貨物列車で火薬が運ばれ、彦山駅からはトロッコでトンネルに運び込まれた。
1945年8月15日日本が降伏し、占領軍がトンネル内に保管された火薬を焼却処分をすることになった。ちなみに二又トンネルの内部には約53万kgの火薬とおよそ180kgの信管が保管されていた。
1945年11月12日、まず吉木トンネルに保管されている火薬を少量燃やし、爆発の危険性がないことを確認してから、二又トンネルの火薬の焼却処分を開始した。
点火してから1時間半後の16時半頃、火薬を燃やす炎がトンネル出入口からまるで火炎放射器のように噴出。その勢いの強さはトンネルから100m以上離れた川の対岸にあった民家に延焼する程であり、目撃者曰く「(トンネルの)入り口から吹き出したり引っ込んだりするような炎はまるで龍の舌のよう」だったという。火はどんどん燃え広がり、住民はなんとか消火しようとしたが燃え広がる炎の勢いを削ぐことは出来ず、17時15分頃(地元の記録)トンネル内に収められていた火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛び、消火活動中の住民は降下してきた土砂に生き埋めにされてしまった。
付近の民家は爆発で吹き飛ばされ、火薬の搬入作業にあたった女性の多くや、トンネルの見張りを行っていた巡査部長、ドングリ採集をしていた小学生29名も犠牲になった。結果的に死者145名、負傷者151名、被害家屋132戸(半壊28戸、全壊25戸、埋没9戸)、田畑などの土地損害も甚大という大惨事になってしまった。※1
火薬の焼却を指示した米軍少尉は軍法会議にかけられ有罪判決の上に降格及び不名誉除隊(日本における懲戒免職に相当)となり、殉職した巡査部長は警部補へ特進となり勲章が授与された。しかし被害者遺族への見舞金の総額は全被害額の3%にも満たなかったという。
この大爆発で二又トンネルは跡形も無く消滅し、切り通しのようになった場所を日田彦山線が通過している。吉木トンネルは現在深倉トンネルと改名され現存している。二又トンネル跡地から筑前岩屋駅方向へ行った場所にある踏切の名前が爆発踏切と名乗っているのはこの事故がきっかけである。踏切からは遠目ながらも二又トンネル跡の切り通しが見える。また、爆発地点近くの昭光寺という寺に犠牲者の為の慰霊碑が建立されている。
当区間は2017年の豪雨災害の影響で不通となり、2023年8月28日より日田彦山線BRT(BRTひこぼしライン)のバス専用道区間として復旧することとなった。これに伴い彦山駅の駅舎は2021年に撤去され、この爆発踏切も線路敷がバス専用道に転用されたことで消滅した。
※1 2009年1月14日の西日本新聞の記事では「147人が死亡、負傷者149人、倒壊家屋135戸の被害」と記載されている