概要
花の妖精は、日本では一般に、イギリスの画家・挿絵画家、児童文学者であるシシリー・メアリー・バーカー(Cecily Mary Barker)が描いた妖精を指す。flower fairy(フラワーフェアリー)の日本語訳。
シシリー・バーカーは、1895年6月28日、イギリス、ロンドン南方のクロイドンに生まれ、1973年2月16日に同地で亡くなった。彼女は幼い頃から絵を描くのが好きで、十代前半で、クロイドンではよく知られたアマチュア画家となっていた。1923年に、ブラッキー社(Blackie)より、Flower Fairies of Spring(春の花の妖精)という詩画集を出版して、妖精画家としてデビューした。
その後、『夏の花の妖精』『秋の花の妖精』など四季の妖精詩画集を出版し(『冬』は出版していない)、また『道ばた』『庭』『樹木』の花の妖精の詩画集と、『花の妖精のアルファベット』を発表した。生前に、七冊の「花の妖精の詩画集」を発表した。
シシリー・バーカーの花の妖精は、背中に蝶やトンボの翅(はね)を付けた、少女や少年、子供で、花びらなどをデザインした衣服をまとっている。彼女の描いた妖精は、現実のイギリスの少年少女の姿で、生き生きしていると共に、写実的である。これは、彼女の姉のドロシーが経営していた児童学校の生徒などをモデルに、デッサンを積み上げた結果である。
また、彼女の描く花や樹木は、植物学的に非常に正確で、空想で描いたような要素がない。シシリー・バーカーは、自然を観察するのを好み、特に植物や花などは、丁寧に時間をかけて観察し、スケッチで描いた。
日本への紹介
シシリー・メアリー・バーカーの花の妖精は、世界的にヒットしたが、日本には、1960年代から70年代にかけて一般に紹介された。
1960年代には、洋書を扱う店(丸善、等)の洋書コーナーに、当時はまだ企業としてあったブラッキー社の花の妖精の詩画集シリーズの本が、輸入されて販売されていた。その頃は、シシリー・バーカーはまだ存命であった。
1970年代には、さる有名なメーカーが売り出した箱入りチョコレートのなかに、縦 3 センチメートルほどの小さなカードがおまけとして付いていたが、それは、シシリー・バーカーの花の妖精の絵であった。
1979年には、彼女の『花の妖精シリーズ』の日本語訳が出版された。日本語訳というのは、シシリーの花の妖精(フラワーフェアリー)は、詩画集において、彼女が書いた詩と共に、絵があったからで、見開きの左のページに、シシリー作の詩、右のページに、妖精の絵が印刷されていた。このスタイルは、1923年の最初の『春の花の妖精』の本の出版時点から一貫してこのような形である。
1980年代後半から90年代にかけては、日本で、妖精画の小さなブームがあり、彼女を含む、幾人かの代表的な妖精画の原画展覧会が日本で開催され、このときに、シシリー・バーカーの妖精画の原画も、少数であるが、日本で見ることができた。
シシリー・バーカーがもし85歳まで生きていた場合、最晩年の十年間で、極東の国で、彼女が生涯を通じて描いた、花の妖精の美しさや純粋さに魅惑された、大勢のファンが現れたことを知っただろうと思うが、十年の時間の違いで、日本の花の妖精ファンとシシリー・バーカーはすれ違ってしまった。
チョコレートのおまけの花の妖精の彩色カードを見た人は、シシリー・バーカーがもっと昔の画家だと考えたようで、その当時にはまだ、シシリーが存命していたとは考えなかったようである。
『冬の花の妖精』
シシリー・メアリー・バーカーは、存命中は、『冬の花の妖精』の本は出版しなかった。理由としては、冬には花が実際に少なかったため、描くことのできる「花の妖精」がいなかった為だと思える。
1979年に偕成社から出版された『フラワーフェアリー・シリーズ』の訳本は、七巻の本から出来ていて、「冬の花の妖精」の本はなかった。
しかし、1985年にブラッキー社は、シシリーの遺稿や、既刊の花の妖精の本から原稿を集めて、『冬の花の妖精』の本を編纂・出版した。こうして、「花の妖精のシリーズ」は、四季の花の妖精 4 巻と、道ばた、庭、樹木、アルファベットの 4 巻で、合計八巻のシリーズとなった。
またこれを受けて、1994年にホルプ社から発行された『花の妖精』シリーズは八巻構成となっていて、『冬の花の妖精』が収められている。
なお、メイン画像は、シシリー・バーカーの「ライラックの花の妖精」の模写。