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概要編集

刀剣乱舞-ONLINE-』に登場するキャラクターである鬼丸国綱×小竜景光のカップリング。表記揺れで「おにこりゅ」とタグ付けされたりもする。

ゲーム内のふたり編集

現時点で回想、特殊内番など直接的な絡みはないが会心の一撃ボイスが同じで共に内番時に大量のヘアピンを付けてる共通点がある(小竜は9本鬼丸は13本)

歴史におけるふたり編集

鎌倉時代末期、鬼丸は北条得宗家の重宝であり小竜は後醍醐天皇に仕えた武将、楠木正成の佩刀であった。元の主の最初の関係は敵対関係であった。

鎌倉幕府滅亡後に鬼丸は新田義貞に分捕られ鬼切と共に新田義貞に佩刀された。


南北朝時代に入り新田義貞、楠木正成は共に後醍醐天皇に仕えた武将であり戦友である。鬼丸と小竜は北条家滅亡後は同軍の刀、元の主は仲間関係になった。

足利尊氏の討伐命令を頂いた後も2人は共闘しており建武の乱の一連の戦い、第一次京都合戦、豊島河原合戦、湊川の戦いを共に戦った。第一次京都合戦では勝利、豊島河原合戦は決着がつかず。そして湊川の戦いは敗北、新田は生き延び撤退をするが楠木は自害。小竜はこの戦後に行方不明になり江戸時代まで姿を現さない。


明治時代、鬼丸は明治4年に本阿弥家から京都の宮内省へ上納され明治14年に東京の宮内省へ御取寄せとなった。小竜は山田家から大久保一翁を経て明治6年に献上された。

終戦後に小竜は東京国立博物館に移動、皇室の御物として約62年間は共にいた。

終戦前の昭和2年に明治の帝が海軍大演習後の慰労に海軍諸将を赤坂離宮に招いて鬼丸と小竜含む11振りを共に披露した話があったり、小竜が移動した後でも昭和22年と平成9年に2振りが共に展示されてたりと鬼丸と小竜が合う機会があったりした。

諸説編集

小竜の主、楠木正成は出自不詳であり挙兵以前には諸説がある。その一つに北条得宗家の家臣(得宗被官)であった説があり1322年に北条高時の命に従った史料もある。


鬼丸は北条得宗家(本家)の重宝であり太平記によれば北条時政(初代)の代から北条高時(14代目)の代に至るまで肌身離さず持っていたとされる。但し同書で名越北条氏(分家)の人間である名越高家が1333年に久我畷の戦いにて鬼丸を使用していたとも記されており同書内で矛盾が生じている。


上記の楠木得宗被官説を採用した場合は2振りの元の主の最初の関係は敵対関係ではなく主従関係であった事になる。名越高家が鬼丸を所持していた説を採用したとしても1333年以前から鬼丸を所持していたとされる史料は存在しない為1322年〜1330年の間まで鬼丸が北条得宗家にいたと仮定すれば北条家で鬼丸と小竜は会っていた可能性もある。


また薄い説ではあるが小竜は農家で発見される以前に足利尊氏、その後室町将軍家、豊臣、徳川に渡ったとされた説も存在するが一般的な説ではない。豊臣、徳川の刀剣記録に載っていない事から史実とは言えないが空白の期間の穴埋めに説を採用するのもいいのかもしれない。

諸説を採用した場合、鬼丸と小竜は北条→新田楠木(南朝)→足利→豊臣→御物と色々な所で出会っている事になる。

その他編集

小竜は1322年に打たれた刀であり1336年の建武の乱が起きている時点では打たれてから13〜14年しか経っていないので鬼丸は最高齢でも14歳の小竜知っている事になる。鬼丸が新田所持になったのが1333年なので最少でも11歳くらいの小竜を知っている可能性もある。上記の諸説を採用するなら北条時代に10歳以前の小竜を知ってる可能性もあるかもしれない。

関連タグ編集

刀剣乱腐 腐向け

鬼丸国綱(刀剣乱舞) 小竜景光(刀剣乱舞)

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