日本社会党(日本社會黨)
(Social Democratic Party of Japan)
(にほん〈にっぽん〉しゃかいとう)
日本社會黨(1906〜1907)
英:(Old)Japan Socialist Party
大日本帝国歴上初めての合法社会主義政党。これ以前に1901年に社會民主黨(社会民主党)が結党したが革命勢力と認定され。内務省により禁令を出された。1922年に日本共産黨(日本共産党)が結成されたが結党以から氾濫分子として官憲・憲兵・特高などのターゲットにされる。当然非合法政党であったので、地下秘密基地的活動がほとんどであった。1906年に社会主義者堺利彦を主要幹部とし「日本社會黨」として結党。その後日本平民黨と合体し、統一政党として「日本社會黨」を立ち上げた。
主な活動としては。華族封建政治の是正、帝国議員を普通選挙で選らばせる政治行動、足尾高山鉱毒事件その他の政府の責任を絶弾を目的とした政治行動などがある。
しかし、その後「革命・人民政府」帝国政府を妥当する事を目的とした革命派(左派)と議会政治を得て変革を目指す「社会民主主義(右派)」の対立が激化した上、当時革新勢力に弾圧に力を入れていた。内務省および傘下の特別高等警察(特高)などにマークをされ。1907年に内務省令において解散を命じられた。
日本社会党
英:Social Democratic Party of Japan
党の経緯は社会党の〈日本の社会党〉の項を参照。
戦後日本政界における、一大革新勢力平和革命社会主義万年野党。党の名前は戦前の「日本社会党」をオマージュした、以降日本の中の〈ソ連共産党〉的存在となった。
1955年までは右派・左派社会党が存在しこれ以降は左派の統一政党としての「日本社会党」となる。遅れて保守陣営の政党が大合同して「自民党」が誕生し。これ以降自民党への対立勢力として凌ぎをけずることになるが、社会党単独で自民党から政権を奪うことはついにできなかった。社会党の綱領は「日本における社会主義への道」〈文章本で上下2巻〉を一応基本原則としていた。党首は委員長と書記長の地位が上下することがあったが、一応、党中央執行委員長が代表であった。党の事務は書記長が行う。1993年に『社民党』に党名を変更。
社会党にも自民党と同じく「右派(社会民主派)・中道(平和革命派)・左派(教条主義・ソビエト派)」の派閥が存在し、党内で凌ぎしあっていたが。党内抗争が自民党よりもすさまじく、統一後、時代がたつにつれて「右派(社会民主派)」党員の大決裂が起こり。「民社党(民主社会党)」や「社会民主連合」を結党するにいたった。
〈旧〉網領(1964~84)(通称『道』、編集)
『社会党党規約』
- 日本社会党は、平和的、民主的に、社会主義革命を達成し、日本の独立の完成と確保を任務とする政党であり、労働者階級を中核とし、農民、漁民、中小商工業者、知識層その他国民の大多数の勤労階層を組織する結合体である。この組織化を推進するために、党は議会の内外にわたり、大衆の利益を守る日常闘争を展開し、実際の闘争を通じて広範なる大衆の間にその指導性を確立する。
- 日本社会党は党内民主主義の原則に基づいて統制ある行動と円滑なる運営を期する。すなわち党員はその出身階層の如何を問わず、平等の権利と義務をもって、信義と友愛の精神に則り党各級機関の討議に参加し、綱領と規約を遵守して、討議決定とそのあやまりなき遂行に責任をもたなければならない。
- 日本社会党の機関は決議機関、執行機関、統制機関の三大機関とする。党の最高機関は全国大会である。執行と統制の二機関は党全国大会で選出されたものによって構成され、各その独自性を保持しつつも両機関の連絡を計り、最終的には大会によってその行動が律せられる。
追記1
上記の文章は一時期結構有名な文章であった、ソ連共産党の規約にかなり似通っているというまた、過激派の団体(連合赤軍)やカルト集団でも『社会党の規約』に似通っていた。上記の文章の後『○○党の中央本部を○○(都市)に置く』と続くが、これも大体社会主義政党ではルールのようだ。
『社会主義革命の必然性』
- 社会主義革命は必要
『日本資本主義の性格』
- 日本資本主義は国家独占資本主義である。
『福祉国家批判』
- 日本独占資本国家状態では真の福祉国家は実現はしない。
『社会主義の原則と基本目標』
『日本革命の性格と日本社会党の任務』
- 社会党の任務は日本の社会主義革命を平和革命として指導することである。
『社会主義政権』
『外交路線と国際連帯』
- 外交路線は積極的中立である。
- 日米安保条約体制を解消する。
- 自衛隊を国民警察隊・平和国土建設隊の2隊に分ける。
- アジア太平洋地域の非核武装地帯の設定。
- 社会党は資本諸国の社会主義(社会民主主義)政党、インターナショナル(国際共産党)、インドなどの非同盟諸国。ソビエト連邦・中華人民共和国などの協調政策をする。(当時はソビエト連邦や米ソ以外の国家の勢力分があった。)
日本社会党の門扉は広く天下に開放されている。
同志諸君、来つて吾等と共にこの歴史的偉業に協力せよ。
追記2
- 社会党と自民党との関係は今日の民主党と自民党的関係よりも、敵対関係が鮮明であり、冷戦状態に近いものがあった。
- 自民党議員の中では『社会党は本当に怖かった』という意見もあったようだ。
- 社会党の政治活動は『デモ(暴動)』であり、〈1960~70年の安保・全共闘大学暴動〉などで政府や自民党に対しデモ・暴動を行なうことが社会党のであったように思う。日本では自民党政権化で経済で文化・生活水準が高くなったので「デモ・暴動を起こすのは昔の時代の事」とされた。2014年代で諸外国では一応先進国でも「デモ・暴動」が一応行われている。
- 社会党の正業は〈デモ〉なのだが、デモは誰が見てもリスクが大きいので、どちらかというと今日の〈社民党〉の活動形式が副業的政治活動として行っていたと思われるが。1984年以降は社民党的な活動が正業となってしまった。
新ルール制定
1984年に社会党左派(教条主義・ソ連派)の影響力が落ちると、既存の綱領に嫌気が差した社会等右派(社会民主派)は平和革命も時代錯誤である観点から党綱領も変更した。しかし「日本社会党 そのイメージは、すんだブルーと深紅のバラ。ブルーと・・・」というのが気持ち悪い・拒絶反応を起こす議員が続出した。当然国民にも「本当に引かれた」ようで、社会党の凋落は避けられなかった。これ以降の「日本社会党」は以前の日本社会党ではなくなってしまわざるを得なかった。
新綱領~愛と知と力のパフォーマンス
『はじめに』
- 短期の片山内閣をのぞいては、政権を担当できなかったので新しく綱領を制定した。
- 与党になることを目標とする。
- 上記の綱領は『歴史的文章』とした。
『めざす』
- 社会主義国家の理想は『日本国憲法』だ。
『みちすじ』
- 『ロシア革命』と日本社会党は違う。
『かえる』
- 自由と民主主義を大事にしながら改革を進める。
- 適切に規制と誘導を行う。
- 社会の面では社会運動を行う。
『つくる』主体と連合-だれが社会主義をすすめるか
- 労働者が貧乏だったので『階級政党』になるのはとうぜん。
- 普通の政党(野党)になる。(国民政党)
- 社会党は自分だけの政党では与党になる力がないので連合政権になるのはふつうのことだ。
わたくしたち日本社会党 そのイメージは、すんだブルーと深紅のバラ。
ブルーは、未来と明るさと清潔さ。深紅のバラは、愛と知と力。
この宣言に、人類の未来と日本国民の幸せがこめられている。
追記
- これ以降の社会党をさす言葉は『わが党』から『わたくしたち』に変わった〈重要〉
- 後期の社会党は土井たか子さんイメージそのものである。(社民党は福島瑞穂さんそのもの。)
- 悪いことは書いていないのだが、トーンダウンしすぎのような気がする。目標が低くなった。
- 思えば今日の社民党の性格になる分けだし。しょうがないのかもしれない。
- 自民党と日本政府に喧嘩を売っていた党とは思えない。
その他
吉本隆明・・・彼は人類史に残る難書、「資本論」を一応読破しているので、「日本における社会主義への道」も当然読破した。日本社会党に対して持論がいろいろある人だった。たぶん党員・評論家。以外で社会党のことを理解している唯一の人間だったんじゃないだろうか。
民主党(日本)・・・2014年現在の社会党的政党