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ローマ人の編集履歴

2014-05-01 13:50:36 バージョン

ローマ人

ろーまじん

ローマ帝国の『主権者身分』(聖書に出てくる主な人々である)

Romanorum 〈ローマニュマ二ヌス(ラテン語)〉


ローマ人(日本語)

羅馬公民(ロマコウミン、中国語)

Римский(アリンスキ、ロシア語)

Romain (ホーマン、フィンランド語)

Poman (ロマーノ、イタリア語)

Römer (ルーマン、ドイツ語)

Ρωμαϊκή (ロマンティ、ギリシャ語)

հռոմեացի (トゥーモミャンシィ、アルメニア語)

الروماني (ダゥロマーニ、アラビア語)


近衛兵ルシウス・驚愕



古代ローマにおける『主権者身分』ロマヌスともいう。ローマ人は民族としてはラテン人に属していた人々であるが、絶えざる征服・併合とともに、現地のラテン人以外の諸民族に市民権を与えることで、地中海世界がローマ化していった。


身体的特徴

ローマ人は平均身長が150cmで髪の毛の色が黒色~灰色、茶色の物が多く金髪は少なかったようである。肉類を本質的に多くは好まずほどほどで、果物・魚が好物だったとされる。(肉食生活をするゲルマン人を嫌悪していたという)


髭ははやさず、髪は短く刈り込んでいるものが多かったが、基本的に古代ギリシャスタイルを憧れており、変化し元首ハドリアヌスがギリシャ伝来の顎鬚巻髪をすると顎鬚などをしているものが増えた。


彫刻から推測する髪型1

初代皇帝アウグストゥスの時代は坊ちゃん刈りに見えるものがあるので、『セレブ層』だと思われる。


彫刻から推測する髪型2

軍人皇帝の髪型は丸坊主短髪にみえる髪型の彫刻が多い。


彫刻から推測する髪型3

皇帝コンスタンティヌス1世の時代になると表現の仕方の変化なのかマッシュルームヘアー?コンスタンティヌスの髪型ばかりの彫刻ばかり見受けられる。


マッシュルームヘアーはキリスト教徒か

どうも、この髪型は当時のキリスト信者の流行のようで、中世ヨーロッパまでマッシュルームヘアーは続くように見受けられる。


小姓刈り(ペイジ狩り)

もともと古代ギリシャの従者・中世の騎士の見習いの少年が小姓(ペイジ)担っているときの、髪形があるらしい。


神代・古代

ローマ人の始まりは古代ギリシャ時代の都市国家ミュケナイ〈総大将、ミュケナイ首領アガメムノン』と都市国家〈イリオス/都市国家トロイ』との戦争で敗北したトロイの将軍アイネエス(神)がイタリア半島にまで逃げ延びた時につき従った兵士今のローマのあたりで集落を作りそれが後世の『ローマ人の氏族』とされている。この時期はローマ神代時代である。ここが間違えやすいのだが、アイネエスが集落を作った場所の神代の国家は都市国家アルバ・ロンガという都市国家である。(ローマ市)は当初都市国家アルバ・ロンガの支配地域に入っていた。


後代の作話でアイネエス(神)はアルバ・ロンガの首長とされた。


都市アルバ・ロンガから独立した建国者ロムルス

ローマ神代時代の終わりころローマ神話の、軍最高司令神マールスの子としてアルバロンガで生まれたロムルス(神)とレムス(神)の兄弟が、アルバ・ロンガ政治のの内乱を鎮め自身がアルバ・ロンガの首長となった。


その後、ロムルス兄弟は都市国家アルバ・ロンガから『ローマ市』のあたりに新たに都市国家を建設することにした、ロムルスはローマ王となりこれが後代の都市国家ローマのことになるが、ロムルス存命中は「ロムルスの町」という表記であった。ロムルスが崩御した後ローマとよばれるようになった。ここの都市に住むものが『ローマ人=ローマ市市民』という認識になっていったようである。


(当然、奴隷はローマ人・市民ではない)


『ローマ市』の膨張~共和制

『ローマ人』は7代約300年続いたで王政(ローマ王)を廃すると、500年続く『ローマ市共和国』体制に入ることになった。この500年の間に『ローマ市』は試行錯誤を繰り返しながら地中海世界を牛耳る勢力となっていた。


しかし、この時点での『ローマ市市民』はイタリア半島と都市国家カルタゴの一部住む者たちであり他はすべて奴隷民(スラブ)であった。


元首(第一人者)政治

紀元前100年に入ると民衆派と元老派の対立がついに武力を使った内乱へと発展ここに元老院を中心とした『ローマ市共和制』は崩壊した。その後カエサルと養子オクタビヤヌス(アウグストゥス)の活躍により『ローマ市共和制』は一応維持された。その後、オクタビヤヌスは『国家の第一人者』として、ローマ社会全体を動かすようになっていくと、一応『秩序』が復活し、ローマ社会全体は発展を始める。


しかし、第一人者オクタビヤヌスが『元首政治』を始める当たって、ローマ市民の『主権』は『第一人者(ローマ皇帝)』に一任されるようになり、事実上形骸化した。


『属州奴隷民から属州民に格上げ』

この時代より『ローマ市』に蹂躙されていた奴隷民がある程度尊重された属州民に格があがった。アウグストスは史上初めて常備軍のローマ帝国軍を創設し帝国各地の属州から人員募集する時の特典として25年間ローマ軍に努めればそのご家族と末代までローマ市民となれるようにした。


元首中期~アントニウス勅令

しかし元首制を初めて200年もたちローマ市民と属州民の同化が進むと。こんどはローマ市民になることへの魅力が薄れ始めた。ローマ市民はいろいろ権利があると同時に軍務・税などの義務もあった。209年の時の元首カラカッラは、(通称:アントニウス勅令)をだし、ローマ全土の人間にローマ市民権を与えた。これにより属州民・従来のローマ市民の垣根は失われた。


(けっして奴隷がいなくなった訳ではない。)


元首後期~東ローマ帝国

ローマ時代後期の軍人皇帝や四分統治の後コンスタンティヌス1世によるキリスト教解禁やテオドシウス1世によるキリスト教国教化により、ローマ人はキリスト教徒となった。


同時にキリスト教世界の正統な民=ローマ人という観念も生まれ始めたようだ。


西側ローマ

ローマ東西分裂後、西ローマ帝国ではゲルマン人や、フン族アッティラ軍団の攻勢を抑えきれ無かった西側ローマは、緩和策としてゲルマン人にもローマ人籍を与えたりした。しかしこれは与えたというより、居座っていいからこれ以上暴れないでくれという意味合いが強い。


結局、西側ローマ帝国の政治中枢はゲルマン人などが要職を占めるようになっていく。その後、4世紀に西側ローマはゲルマン部族首領オドケアルが少年帝ロムルス・アウグストゥルスに退位させ、西側ローマ帝国は終焉した。


後のドイツ人国家の神聖ローマ帝国などで神聖ローマ皇帝が即位する時には『ローマ人の皇帝万歳』という文句がついた。


東ローマ帝国

東ローマ帝国は西側ローマが4世紀に滅亡した後もその後1000年に及び存続した。当初はローマ人の帝国としての意識があったが、帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語であったため、国民はギリシャ人意識を持つようになり、中期以降は名実ともにギリシャ人の帝国と化していった。

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