表記
- Romanorum(ラ)ローマニュマ二ヌス
- ローマ人(日)
- 羅馬公民(中)ロマコウミン
- Римский(露)アリンスキ
- Romain (フ)ホーマン
- Poman (イ)ロマーノ
- Römer (独)ルーマン
- Ρωμαϊκή (希)ロマンティ
- հռոմեացի (アルメニア)トゥーモミャンシィ
- الروماني (アラビア) ダゥロマーニ
概要
古代ローマにおける『元老院とローマ市民』を構成し支配を受ける人々。ロマヌスともいう。ローマ人は民族としてはラテン人に属していた人々であるが、絶えざる征服・併合とともに、現地のラテン人以外の諸民族に市民権を与えることで、地中海世界がローマ化していった。
特徴
ローマ人は平均身長が150cmで髪の毛の色が黒色~灰色、茶色の物が多く金髪は少なかったようである。肉類を本質的に多くは好まずほどほどで、果物・魚が好物だったとされる。(肉食生活をするゲルマン人を嫌悪していたという)
髭ははやさず、髪は短く刈り込んでいるものが多かったが、基本的に古代ギリシャスタイルを憧れており、変化し元首ハドリアヌスがギリシャ伝来の顎鬚や巻髪をすると顎鬚などをしているものが増えた。
元首アウグストゥス時代は坊ちゃん刈りが多かったようである。
マッシュルームヘアー?の元首コンスタンティヌス1世の時代になるとコンスタンティヌスの髪型がはやり、というよりこのスタイルは中世ヨーロッパまでマッシュルームヘアーは続くようにみえるのである。
ローマ人の始まりは古代ギリシャ時代の都市国家ミュケナイ(総大将:ミュケナイ元首アガメムノン)と都市国家イリオス(トロイ)との戦争で敗北したトロイの将軍アイネエス(神)がイタリア半島にまで逃げ延びた時につき従った兵士今のローマのあたりで集落を作りそれが後世の『ローマ人の氏族』とされている。この時期はローマ神代時代である。
ここが間違えやすいのだが、アイネエスが集落を作った場所の神代の国家はアルバ・ロンガという都市国家である。(ローマ集落)は当初アルバロンガ支配地域に入っていたようである。 後代の作り話でアイネエス(神)はアルバ・ロンガ元首とされた。
都市アルバ・ロンガから独立した建国者ロムルス
ローマ神代時代の終わりころローマ神話の、軍最高司令神マールスの子としてアルバロンガで生まれたロムルス(神)とレムス(神)の兄弟が、アルバ・ロンガ政治のの内乱を鎮め自身がアルバ・ロンガ元首となった。
その後ロムルス兄弟は都市国家アルバ・ロンガからローマ集落のあたりに新たに都市国家を建設することにした、ロムルスはローマ王となりこれが後代の都市国家ローマのことになるが、ロムルス存命中は「ロムルスの町」という表記であった。ロムルスが崩御した後ローマとよばれるようになった。ここの都市に住むものが『ローマ人・市民』という認識になっていったようである(当然、奴隷はローマ人・市民ではない)
ローマ膨張期~共和制
『ローマ人』は7代約300年続いたで王政(ローマ王)を廃すると、500年続く共和体制に入ることになったこの500年の間にローマは試行錯誤を繰り返しながらなんと地中海世界を牛耳る勢力となっていた。しかしこの時点での『ローマ人』はイタリア半島とカルタゴの一部住む者たちであり他はすべて奴隷民であった。
元首制
紀元前100年に入ると民衆派と元老派の対立がついに武力を使った内乱へと発展ここに元老院を中心とした共和制は崩壊した。 その後カエサルとアウグストゥスの活躍によりローマ市民が変化に築かないうちにローマの体制が元首制を頂点とした世界となった。
『属州奴隷民から属州民に格上げ』
この時代より共和ローマに蹂躙されていた奴隷民がある程度尊重された属州民に格があがった。
アウグストスは史上初めて常備軍のローマ帝国軍を創設し帝国各地の属州から人員募集する時の特典として25年間ローマ軍に努めればそのご家族と末代までローマ市民となれるようにした。
元首中期~アントニウス勅令
しかし元首制を初めて200年もたちローマ市民と属州民の同化が進むと。こんどはローマ市民になることへの魅力が薄れ始めた。ローマ市民はいろいろ権利があると同時に軍務・税などの義務もあった。
209年の時の元首カラカッラは、(通称:アントニウス勅令)をだし、ローマ全土の人間にローマ市民権を与えた。これにより属州民・従来のローマ市民の垣根は失われた。けっして奴隷がいなくなった訳ではない。
元首後期~東ローマ
ローマ時代後期の軍人元首政や四分統治の後コンスタンティヌス1世によるキリスト教解禁やテオドシウス1世によるキリスト教国教化により、ローマ人はキリスト教徒となった。 それとキリスト教世界の正統な民=ローマ人という観念も生まれ始めた。
西側ローマ
ローマ東西分裂後、西ローマ帝国ではゲルマン人やフン族・アッティラ軍団の攻勢を抑えきれ無かった西側ローマは、緩和策としてゲルマン人にもローマ人籍を与えたりした。しかしこれは与えたというより、居座っていいからこれ以上暴れないでくれという意味合いが強い。これにより西側ローマの政治中枢はゲルマン人などが要職を占めるようになっていった。 しかし結局4世紀に西側ローマはゲルマン部族首領オドケアルが少年元首ロムルス・アウグストゥルスに退位させ、西側ローマ文明は終焉した。
後のドイツ人国家の神聖ローマ帝国などで神聖ローマ皇帝が即位する時には『ローマ人の皇帝万歳』という文句がついた。
東ローマ
東ローマ帝国は西側ローマが4世紀に滅亡した後もその後1000年に及び存続した。当初はローマ人の帝国としての意識があったが、帝国の公用語はラテン語ではなくギリシャ語であったため、国民はギリシャ人意識を持つようになり、中期以降は名実ともにギリシャ人の帝国と化していった。