概要
「ドキドキ!プリキュア」第2話で単身ジコチューに立ち向かおうとする相田マナに対して、菱川六花が「この幸せの王子!」と叫んだことからこのタグが発生した。
元ネタは、オスカー・ワイルドの童話、『幸福な王子 (The Happy Prince)』。町の不幸な人々を救うために、自分をかざる宝石や金箔を剥いで分け与えつづけた王子の銅像の物語。他人のために献身しつづけるマナの態度を評した言。
ボロボロになった王子は、町の住民から蔑まれるようになり、廃棄される哀しい最期を迎える。自分の身を省みないマナに対し、六花が心配や憤りをぶちまけた言葉であるといえよう。
しかし、その後に
「広場に立ってる王子の銅像には、困ってる人たちに金箔をくばる燕が必要なのよ!?」
「私はあなたの燕にはなれない!?」
と続けている。
マナの態度に不安を覚えながらも、それを否定せず、傍らに寄り添ってマナを助けたい。そんな六花の強い思いをマナは受け入れ、秘密だったキュアハートの姿を明かし、あえて危険な戦いに六花を巻きこむ覚悟を決める。
ちなみに『幸福な王子』の燕は、ずっと王子のそばに寄り添いつづけ、冬になっても南の国へ渡ることなく命を落とし、最後には王子の鉛の心臓(ハート)とともに天国へと導かれる。
受け取りかたによっては、プロポーズとも考えられるかも知れない……。
作中では第2話以降も六花は定期的にマナを幸せの王子に例えた発言をしており、一話限りのネタではなく作品テーマの象徴になっていることが窺える。
使用方法
このタグは、マナと六花のカップリング、とりわけ、以上のような第2話のエピソードや『幸福な王子』を踏まえたイラストに特に付けられる。
もしくは王子様のようにイケメンなマナのイラストにも付けられている。実際、人助を率先してこなすマナは頼りがいがあるので、素で王子様っぽいのも確かである。
なお、12話では弟子入り志願者の早乙女純も「白馬の王子様のようでした」と発言し、彼の空想図の形で実際に王子様の扮装をしたマナが描かれている。
こちらは六花の言う「幸せの王子」とは違い、人助けを率先して行う頼れる上級生としてのマナを例えたもの。
キュアハートと鉛の心臓
この童話の終わり方は美しいとも言えるがやはりバッドエンドである。命なき銅像の王子が愛を持って黄金を分け与えているという想像力を持つことができず、燕が黄金を落としていくことをただの幸運としか捉えられずに、挙句にみずぼらしい姿になった王子を壊してしまった人間たちの愚かさを皮肉った警句というのがこの童話の本質である。
その少しネガティブな面についての指摘は作中では避けられ続けていたのだが、32話でついに円亜久里がマナの未来を「鉛の心臓」に例える不安を述べた。これはまさに、マナの強すぎる博愛は他者を堕落させマナ自身をボロボロにしてしまうという警告のつもりで語った言葉である。
これが今後の展開への不吉な予告でなければいいのだが…?
そして最終話。
最後の敵であるプロトジコチューにより、ついにマナのプシュケーがくりぬかれて奪われてしまう。
マナは心を失い、抜け殻となって倒れる。生気を失ったプシュケーは鉛のような色になってしまう・・・ そして、マナのプシュケーから最強のジコチューを作り出そうとするプロトジコチュー。
やはり幸福の王子ネタは鬱展開への予言だったのだろうか!?
だが、マナのプシュケーはわずかだが輝きを残していた。プロトジコチューはその輝きを消そうとジャネジーを注ぎ続けるが、むしろそれに対抗するかのように輝きを強め、最終的にすべてのジャネジーを自分の思いだけで跳ね除け、マナのプシュケーは自らの意思でマナの体に戻っていった。
しかし、それは不思議な奇跡などではなく、その前の話で分かっていた当然の結論。
前の話では今までにマナたちに助けられていた人々がマナに愛を返すかのように、微力ながらも自分たちができることでプリキュアたちの戦いを助け、支えていた。彼ら一人一人の小さな行動は、大貝町のすべてがジコチュー化するはずという運命を打ち砕いた。それはプリキュアたちだけではいくら頑張ってもできなかったこと。
王子が民衆に与えた愛は、何倍にもなって返されたのである。
ならばその心臓は鉛になることなどなく、黄金の輝きを放ち続けるのみ!
マナは幸福の王子の顕現ともいえるキュアハート・パルテノンモードに覚醒し、プロトジコチューを浄化してみんなの幸せを取り戻すに至った。
実は・・・
アニメージュ誌のスタッフインタビューによると、初期の段階ではマナをジコチュー化させる構想があったらしい。
しかし最終的には、プリキュアには「善い心の象徴」であってほしいということでその案は没としたそうだ。
「幸福の王子」のキーワードが序盤に繰り返されたのは、鉛のキュアハートが誕生してしまう悲劇の予感を示していたというのはあながち間違いでもない。
マナは下手をすると独善的とも捉えられかねないキャラクターというのは製作側もみとめているところで、その独善性・おせっかいを「マナの自己中な心」とすることでジコチュー化させる予定だったのかも知れない。
悪堕ちを没にした時点で、マナは独善であることを肯定しなくてはならない宿命となった。つまり、マナは自分がみんなの上に立っていることを「善いこと」として信じ抜くキャラになったのである。
これはマナの将来の夢が総理大臣になることであり、現時点で生徒会長としてみんなの上に立っていることに強い愛着を示していることが象徴している。 マナは「いつか王になる者」=王子様として描かれているのである。
本音で言えば、鉛のキュアハートとなったマナを仲間たちが救うような展開もみたかったという人もいるだろうが……
(そういう人にはノワールプリキュアのタグをどうぞ)