設計図
基準排水量:26050t。
満載排水量:32100t。
全長:222m。
全幅:29.0m。
武装:45口径35.6㎝連装砲塔四基。
50口径15.2㎝単装砲塔八基。
12.7cm連装高角砲六基。
25mm三連装十八基。
カタパルト1基。
水上偵察機3機。
装甲:水線部203㎜。
甲板70㎜。
弾火薬庫甲板64-102mm。
速力:30ノット。
乗員:1310名
艦名の由来
榛名の艦名は、京都府にある比叡山に由来する。艦内神社として同山山麓の日吉大社が奉祀された。
戦艦であるのもかかわらず、旧国名ではなく山岳名になっている。その理由として、本艦を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。
建造の経緯
1906年10月にイギリスが当時世界最強の戦艦ドレッドノート(これが「弩級」という言葉のルーツとなった)を竣工させると、日本海軍が建造中だった薩摩型戦艦をはじめ、世界各国の保有戦艦は前弩級戦艦として一挙に旧式化した。そこで日本海軍は、イギリスで着手・起工させた同型艦の金剛をもとに、横須賀海軍工廠にて「卯号装甲巡洋艦」として計画、1912年11月に「卯号巡洋戦艦」として進水した。この時大正天皇による命名式が行われ比叡となった。天皇による軍艦の命名は、本艦が初めてとなった。
1916年6月1日、イギリスとドイツ両海軍の間にユトランド沖海戦が勃発。イギリスの巡洋戦艦クイーン・メリー級3隻とドイツの巡洋戦艦・リュッツオウが沈没された。これにより、巡洋戦艦の脆さが露呈した結果となった。そこで、戦艦の水平防御力強化対策を行ったが、日本海軍はユトランド沖海戦の戦訓を踏まえた超弩級戦艦・長門型を筆頭とする八八艦隊(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻)の建造にとりかかっており、本艦をはじめ、金剛型巡洋戦艦の補強を行う予算はなかった。比叡は各国の思惑をよそに、1919年の北支沿岸警備、1920年のロシア領沿岸警備、1922年の青島・大連警備、セント・ウラジミル警備、1923年の南洋警備・支那沿岸警備、関東大震災救援物資輸送任務など、諸任務に投入されていた。
3度にわたる改装
練習戦艦に改装
1921年に、ワシントン海軍軍縮条約が締結されると、大型艦の建造を自粛する海軍休日が始まった。軍縮の影響は本館にも及び、1929年10月15日より、比叡は呉海軍工廠にて第一次改装に着手するが、条約成立により工事は一旦中止された。条約により戦艦1隻が練習戦艦へ改装されることになり、金剛型で工事の一番遅れていた本艦が選ばれた。工事は4番主砲と舷側装甲の撤去及び機関の変更が行われ1932年12月31日に完了、翌1933年1月1日に練習戦艦に類別変更された。
御召艦に改装
練習戦艦となった本艦は、兵装が撤去された際に艦内のスペースが余っていた。また、スケジュールの組みやすいことから昭和天皇の御召艦として利用された。1933年5月には展望台を設けるなど、御召艦用施設の設置工事を横須賀工廠で行った。本艦はこの年の横浜沖大演習観艦式と、1936年に行われた神戸沖特別大演習観艦式、戦艦に復帰した第二次改装直後の1940年10月11日における紀元二千六百年特別観艦式の合計3回、観艦式での御召艦を務めている。また1935年には宮崎、鹿児島行幸の際の御召艦を、更に同年4月の満州国皇帝 愛新覚羅溥儀の訪日の際にも御召艦となっており、前者を含めると、計5回務めたことになる。
大改装
1936年12月末のロンドン海軍軍縮条約切れをまって、11月により呉工廠で戦艦として復活する大改装が行われた。英国は、本艦の再武装を在日本英国代理大使を通じて抗議し、本艦の廃棄処分と日本政府の説明を求めた。これに対し日本政府は、「比叡を練習艦として保存するという制限は、条約の効力存続を前提とするものであって、失効後は制限も消滅する」だった。この改装は他の金剛型戦艦が1次、2次と2回で行われた改装を一度に行った形となった。
この近代化改修は、大和型のテスト艦としての役割も担っている。艦橋構造物は他の艦と違い、大和型と似た塔型構造を採用している。艦橋トップの方位盤も大和型で採用予定の九八式射撃盤と九四式方位照準装置を、大和型と同様に縦に重ねて搭載している。これにより姉妹艦とは艦影がかなり異なる形となった。
戦歴
対米戦争にそなえ、霧島と共に第三戦隊第一小隊を編成、第八戦隊と共に南雲機動部隊の支援部隊を形成した。もし、万が一、米軍水上部隊に襲撃された場合は36cm砲で撃退し、また空母が損傷した場合は曳航することが期待されていた。1941年12月8日、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛する。12月24日、日本に戻り、1942年1月8日トラック泊地へ向けて出港。南雲機動部隊はラバウル空襲、オーストラリアのポート・ダーウィン空襲を行い、本艦も同行する。2月8日、霧島を含む機動部隊ごと南方部隊に編入され、2月16日に金剛・榛名と合流し金剛型戦艦4隻が揃うことになった。2月下旬、南雲機動部隊はオーストラリア方面に脱出する連合軍艦艇の捕捉撃滅を命ぜられ、比叡は利根型2隻と共に、ジャワ島南方海域を警戒した。3月1日、比叡は逃走する米軍駆逐艦・エドソールを発見し、距離25kmの敵艦に対し前部36cm砲で砲撃した。「利根」・「筑摩」も砲撃したが、エドソールには命中せず、比叡が発進させた九五式水上偵察機の爆撃も失敗した。比叡は砲撃を中止する。南雲忠一中将は空母「加賀」・「蒼龍」に九九式艦上爆撃機による爆撃を命じ、砲撃開始。艦爆が攻撃し、エドソールは大破した。比叡は16kmまで接近すると、副砲射撃でエドソールを撃沈した。
1942年に5月、第三戦隊の中で編成替えが行われ、比叡と金剛が第一小隊、榛名と霧島が第二小隊となり、第一小隊は近藤信竹中将の第二艦隊に加わり、第二小隊は南雲機動部隊に編入された。同年6月5日ミッドウェイ海戦では、近藤艦隊は南雲部隊から正規空母4隻の沈没という情報を受信すると、直ちに東方へ進軍を命じ米軍機動部隊との水上戦闘を企図した。だが、米軍機動部隊は日本軍との夜戦を嫌って東方へ反転退避する。さらにレーダーを搭載した戦艦「日向」は山本長官が乗艦する戦艦「大和」と共に遥か西方にあり、近藤は夜戦を断念、続いて山本長官の退却命令により退却行動に入った。比叡は第十駆逐隊と共にアリューシャン方面で哨戒任務につき、7月11日、横須賀に帰港した。
7月14日に、戦時編制が改訂され、南雲忠一中将・草鹿龍之介参謀長指揮のもと、第三艦隊が編成され、比叡は霧島と共に第十一戦隊を形成して第三艦隊専属部隊となった(金剛・榛名は第二艦隊へ移して第三艦隊に再編成)。8月7日、米軍はウォッチタワー作戦を発動し、米軍機動部隊の支援の元、ガダルカナル島・ツラギ島に米海兵隊が上陸・占領する。日本軍はラバウルから一式陸上攻撃機を、水上からは外南洋部隊・第八艦隊を迎撃に向かわせた。日本軍航空隊は「軽巡2隻、輸送船10隻、大巡1隻大火災、中巡1隻大破傾斜、駆逐艦2隻火災、輸送船1隻火災」を報告、第八艦隊は第一次ソロモン海戦で「巡洋艦10隻撃沈、駆逐艦4隻撃沈」を報告した。しかし実際は、第八艦隊は重巡洋艦4隻を沈めたものの、航空隊の戦果は駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦2隻大破だけだった。
第二次ソロモン海戦では、第三艦隊前衛部隊は機動部隊本隊からわずか5-10浬程度しか進出せず、近藤の第二艦隊は第三艦隊が無線封鎖をしているために味方の位置すら掴めなかった。日本軍は軽空母「龍驤」と零戦30、艦爆23、艦攻6を失い、米軍は空母「エンタープライズ」が中破して航空機20を失った。この戦闘で比叡は、零式水上観測機1機をSBDドーントレスとの空戦により失っている。
10月の南太平洋海戦では、戦闘中に近藤中将の第二艦隊前進部隊の指揮下に入り、撤退する米軍機動部隊を追撃した。近藤艦隊は航行不能になっていた空母「ホーネット」を捕捉し、撃沈した成果を上げた。
最期
1942年11月12日、第三次ソロモン海戦が勃発する。ガダルカナル島への艦砲射撃の任務に就いていた比叡は深夜の激しいスコールの中で米艦隊と遭遇、3隻の巡洋艦を相手していたが探照灯を点灯していたため格好の的になってしまい艦上は火災発生、舵も故障してしまう。その後の空襲で損傷甚大とされた比叡の艦内は混乱しており、通信機も故障したため伝令兵による受け渡しをしていたがこの時に機関室浸水が「機械室全滅」と誤報になってしまい、艦首脳陣は自沈を決意。味方駆逐艦による雷撃処分も命令されている(その際の実行艦の一隻が「雪風」であるという説もあるが、実際に行われたかどうかは公式記録になく不明)。当初は退艦を拒否していた西田艦長も、機関室全滅の報告を受けて総員退艦を決意し、駆逐艦「雪風」へ移される。後にそれが誤報で機関室は健在であったと判明。だが時既に遅く、一度退避した味方駆逐艦が戻ったころには既に比叡の姿がなくなっており、沈没と判定された。
これが日本海軍において、太平洋戦争で沈没となった初の戦艦となった。
エピソード
- 御召艦時代に、本艦が切手として描かれ、写真週報でも報道されるなど、戦前の日本海軍を代表する軍艦であった。これらにより戦前では長門型戦艦、高雄型重巡洋艦と同じくらい親しまれた艦であったという。日本の戦艦が切手に登場したのは、同じく御召艦であった香取型戦艦(香取と鹿島)を描いた1921年発行の昭和天皇帰朝記念切手以来2度目のことであった。
- 1936年2月の二・二六事件では、横須賀鎮守府の井上成美参謀長が米内光政司令官に「万一の場合は陛下を比叡に御乗艦願いましょう」と進言しており、より深刻な事態になった場合は昭和天皇が「比叡」から指揮を執る事態もありえた。同年には北海道で行われた陸軍大演習に際し、天皇を横須賀から小樽まで送り届けた。