ジョン欠地王
じょんけっちおう
概要
生い立ち
1167年12月24日、プランタジネット王朝の初代王・ヘンリー2世の末子として生を受けるも、彼には土地を与えることができなかったため、父王からJohn the Lackland(土地の無いジョン)とあだ名をつけられた。母君のアリエノールから愛情を受けられなかった事をヘンリー2世は憐れんだとも言われているが、父王が彼に土地を与えようとしたら兄達が反発したり、せっかく賜ったアイルランド卿の位も名目上でしかなかったなど不遇が続いた。
一門内部の争い
こうした不運と冷遇を憤ったのか、以前から父と不仲だった兄のリチャード1世に1188年以降からジョンは従い、重荷だった父のヘンリー2世に大打撃を加え、ついに憤死させる。1189年に勃発した第3回十字軍に兄王が掛かりきりになると、王位奪取を目論む。フランス国王フィリップ2世がジョンと結託した話は有名だが、神聖ローマ帝国の介入説もあって謎が多い。
だが、その御家騒動は失敗に終わってしまい、兄に屈服したジョンは雌伏の時を過ごす。
フランスとの対立
1194年に帰還したリチャード1世はフランス各地を転戦するが、1199年4月6日に帰らぬ人となる。その時に後継者がいなかったリチャードは甥のアーサー王子ではなくジョンを後継者に指名し、即位が確定する。兄の死後、ジョンは1200年にフランス貴族の娘であるイザベラ・オブ・アングレームを娶り、1203年には敵国に通じたアーサーを捕えるなどそれなりの活躍を見せる。だが、イザベラ王妃にはフランスに仕える武将のリュジニャンと言う婚約者がいたことと、アーサーの支持者がフィリップ2世だった事などが重なり、フランスはジョンを敵視する。
フィリップは1202年の時点でジョンを法廷に召喚(イングランドの指導者は大陸領においてはフランス王の配下扱い)したが、呼び出しに応じなかったのを理由にフランス国内にあるイングランドの領剥奪を宣言していたため、争いは避けられなくなってしまった。
失地王
その後もジョンには不運が重なる。1205年にカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが死去した際、ローマ法王インノケンティウス3世が派遣した聖職者の受け入れを拒否したことから破門され、フィリップ2世に大義名分を与えてしまうが、ジョンはイングランドを献上することで法王の破門を解く(後に法王はジョンに与える形で領土返還をしている)。
その後もジョンはフランス打倒のために執念を燃やすが芳しい結果は得られず、領民や貴族の不満を解消するため1215年6月15日にラニーミードでマグナ・カルタ、すなわち大憲章に署名する。弱体化した王権の象徴と言えるこの事件だが、それは皮肉にも英国を現在まで続く立憲君主の本場たらしめる一端を作ったのだった。
逸話
- フランスに屈したと言う不名誉から英国民に嫌われること甚だしく、ロビン・フッドの物語では憎まれ役で、シェイクスピアの劇でも悪人扱いである。
- リュジニャンの許婚や臣下の女性を愛人にした行為も責められているが、当時は初夜権や略奪婚が普通に行われていた事もあり、ジョンだけが異常と言うわけでもない…のだが、これらの諸事情による徹頭徹尾の悪評が原因でジョンと言う英国王がいないとも言われる(ジョンと言う王子や親王は実在したが、いずれも即位せずに亡くなっている)。
- 一方、フランスを倒すために海軍の成に力を注ぎ、世界遺産にも登録された港町リヴァプールの建設を手掛けるなど、賢帝としての一面もある。兄王の失政(十字軍の費用を捻出するために売官したり、ロンドンまで売ろうとした)のしわ寄せが来たという見方もある。
- 軍事や外交では有能ではなかったが、内政では兄王の代にボロボロだった経済を回復させたり、渋々ながらとは言えマグナ・カルタによって立憲君主制の基礎を築くなど暗君説に疑問を呈する声も強い。
- 死因は赤痢だが、桃の食べ過ぎで死んだという説を出されたこともある。某下着メーカーとは関係ない…と思われる。
主な家族
ジョン欠地王が登場する作品
実写版
『ロビンフッド』(1973/1991/2010にそれぞれ作品がある)や『冬のライオン』(1968)など中世の英国を舞台にした作品に多く登場。矮小化された愚鈍な姿や、悩みながらも乱世を生き抜くなど必ずしも悪人扱いではない。