2代目鳥海をモチーフにした「艦隊これくしょん」のキャラクターは「鳥海(艦隊これくしょん)」を、その他の用例は鳥海を参照。
2代目鳥海(重巡洋艦)の概要
高雄型重巡洋艦の3番艦にして、書類上は同型の摩耶とともに日本最後の重巡洋艦。
ただ文献によっては4番艦とするものもある。
三菱重工長崎造船所で建造され、1932年6月に竣工した。母港は横須賀である。
旅客船のノウハウが豊富な三菱長崎で建造されたためか居住性に優れており、そのためか、ほかの同型艦とは異なり、生涯にわたり艦橋どころか航空艤装も魚雷発射管も旧型のまま、かつ主砲も旧式の12cm単装高角砲を維持し、1度も改装されることがなかった。摩耶も開戦までに改装が間に合わなかったが、そちらは防空巡洋艦化の際に色々近代化されている。
第二次大戦開戦~ソロモン海戦まで
鳥海は高雄型の中でも指揮能力に優れていたこともあり、旗艦を任されることが多かった。
開戦前にも、北部仏印(現ヴェトナム北部とラオスの一部)進駐の際には第二遣支艦隊旗艦として参加している。このとき、海軍はもとより東條英機陸軍大臣や松岡洋右外務大臣も武力行使は避け平和進駐の方針だったのに対し、現地の陸軍部隊は武力を以って強行上陸を決行するつもりで、そのため鳥海は半ば援護、半ば陸軍監視のようなスタンスだった。そのため鳥海は海軍軍令部に対し、平和進駐などするつもりのない陸軍現地部隊の態度を難詰するような、厳しい電文を何通も発しているが、結局握りつぶされてしまった。この結果発生したのが、いわゆる「陸軍置き去り事件」である。
開戦時は南遣艦隊司令長官・小沢治三郎中将の旗艦としてマレー半島上陸作戦に参加、真珠湾攻撃より僅かに早く戦争の火ぶたを切り、その後もビルマ攻略作戦への補給作戦やベンガル湾での通商破壊作戦などで艦隊を率いて武勲を収める。
だが、鳥海の名を一躍高めたのは1942年のソロモン海戦である。
フロリダ諸島の戦いにおいて、米軍の奇襲上陸作戦によりガダルカナル島及びツラギ島を失った日本海軍は、この反攻作戦において第六戦隊(加古・古鷹・青葉・衣笠)および天龍、夕張、夕凪で編成された三川艦隊を動員、鳥海は旗艦として海戦に参加した。
闇に紛れ輸送船団を狙い泊地へと突撃した艦隊は索敵網を掻い潜り、奇襲に成功する。ガ島攻略により疲弊した米豪連合艦隊は不意を突かれ大混乱、重巡4隻と駆逐艦1隻を失う。
この勝利はミッドウェー作戦の大敗で下がっていた日本海軍の士気を大いに盛り上げたと言われているが、本来三川艦隊のターゲットでもあった輸送船団は一時引き上げた後、輸送物資の揚陸に成功したことから、輸送船団を叩くという本来の作戦は大失敗に終わった。
レイテ沖海戦群へ
ソロモン海戦群ののち、第八艦隊旗艦任務を解かれて横須賀へ帰還し入渠した本艦は、機銃を増設され21号対空電探と22号対水上電探を付けられる。出渠後、高雄型重巡で構成される第二艦隊第四戦隊に復帰、ブーゲンビル島に出撃する予定だったが、第二艦隊がラバウルに集結したまさにそのタイミングで敵空母機動部隊の空襲に遭い、鳥海の方はラバウルから離れた場所にいて無事だったが、高雄、愛宕、摩耶がすべて深く損傷していたため、出撃は中止、そのままトラック泊地へ戻る。
1944年1月には、トラック泊地近海で雷撃を受け立ち往生していた伊良湖の曳航を、同行の駆逐艦潮とともに行い、これを成功させている。
そして鳥海はその年のマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦群に、同型3隻とともに参戦することになる。
謎に包まれた最期
鳥海最後の戦いになったレイテ沖海戦群。序盤にパラワン水道で潜水艦の攻撃を受け愛宕と摩耶が沈没、高雄も大破してシンガポールに落ち延びる中、鳥海はサマール島に向かい、ここで羽黒を旗艦とし、金剛や利根などによる艦隊に編入される。サマール島沖海戦が生起したのだ。
本艦は、金剛や利根などとともに米空母群と死闘を繰り広げるが、最終的に、米護衛空母ホワイト・プレーンズの砲撃を受け右舷中部に被弾。運が悪い事に魚雷が誘爆を起こしたものの、一旦は立ち直って動き始める。
しかしその直後再び米軍機の攻撃を受けて被弾炎上、海上に停止、救援にきた駆逐艦藤波は周囲をぐるぐる回って警戒しつつ復旧を待ち続けたが、その甲斐もなく炎上し続けた鳥海は、日没についに放棄が決まり、雷撃処分となった。10月25日のことである。
そして生存者を乗せた藤波も、翌日早霜の救援の際に空襲を受けて沈没したことから、鳥海の乗組員762名は最終的に全員が戦死してしまっている。その中には、声優の古川登志夫氏の実兄・善一郎(本艦に搭乗していた機関砲手のひとり。当時22歳)も含まれている。
現在、鳥海と藤波の慰霊碑は佐世保東山海軍墓地に置かれている。
この鳥海の落伍について、金剛による誤射とする説がある。
ミリタリー専門誌「丸」の2015年4月号に掲載されていた「サマール島沖の誤射事件」において、鳥海の被弾を目撃した羽黒、加害者になってしまった金剛、その双方の乗組員による複数の証言、また羽黒の艦長が緘口令を敷いたという証言が存在するが、それによると、この誤射は鳥海最後の艦長が功を焦るあまり、不注意から金剛の砲火を浴び、それがもとで落伍を早めてしまったという。
ただし当のホワイト・プレーンズが砲撃により重巡洋艦を落伍させたと主張しているため、米軍の攻撃による被弾が航行不能に至る原因とするのが通説ではある。
この2つの説を合わせ「金剛の砲弾を誤って浴びる→そののちホワイト・プレーンズの砲弾をもくらう」と解釈することもできなくもないが。
2代目鳥海の戦没から53年後に就役した海上自衛隊のイージス艦「ちょうかい」が、金剛の名を受け継いだ「こんごう」の同型艦であることを考えると、この説もなかなかに興味深いものがある。
初代鳥海(砲艦)
砲艦の初代鳥海は、東京石川島造船所(のち石川島播磨重工を経て現在のIHI)で1886年1月25日に起工し、1887年8月20日進水ののち1888年12月27日に就役した、摩耶型砲艦の2番艦。
同型にネームシップの摩耶、3番艦の愛宕、4番艦の赤城がある。
日清戦争や日露戦争に従軍ののち、1908年度より雑役船となり、1911年5月23日に除籍される。翌1912年に売却されたが、その後の動向は不明。
ちなみに摩耶と赤城は実際に民間に払い下げられた(初代愛宕は座礁で失われた)。
なお現在、東京・中央区の石川島資料館にこの初代鳥海の模型が展示されている(残念ながら撮影禁止)。
関連タグ
高雄(重巡洋艦) 愛宕(重巡洋艦) 摩耶(重巡洋艦) 赤城(空母)
ちょうかい(イージス艦)・・・3代目に相当する「こんごう」型最終4番艦(こちらは2代目とは異なりはっきり4番艦である)。初代と縁深い石川島播磨重工東京工場(現在は廃止)で建造された。