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ティベリウスの編集履歴

2016-06-18 16:23:31 バージョン

ティベリウス

てぃべりうす

ローマ最高指導者(第2代)

TIBERIVS JVLIVS CAESAR AVCVSTVS

ティベリウス

ペンネーム(ティベイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス)


ローマ共和国(S・P・Q・R)の政治家。第二代ローマ共和国とローマ市民の代表(元首第一人者事務局長ローマ帝独裁者

(全軍司令官・在任B.C14-A.D37.23年)共和主義者、ローマ神話教徒

カエサルとアウグストゥスの後継者 ローマ共和国第一人者(共和国の代表・プリンス)・ローマ全軍司令官(インペラトル)(ローマ皇帝ローマ帝執政監(コンスル・政治の長) 市民を守る監護民監 最高ローマ神殿司祭(教皇)他


 本名ティベイウス・クラウディウス・ゲルマニクスは、後のアウグスタリウィアが後のプリンケプス・オクタヴィヤヌス(アウグストゥス帝]])再婚する前に、ローマ軍将校兼元老議員の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロ(TIBERIVS CLAVDIVS NERO)との間に設けた息子である。元首就任以前から非常に優れた優れた(帝国軍)の武官的ローマ軍軍指揮官(騎士)であることが有名で、実質的な総司令官だったマルクス・アグリッパの元でパルティア王国・ローマ領ゲルマニア・ローマ領パンノニア・ローマ領イリュリュクムで起こった反乱鎮圧のために出勤した。


 BC12、実質的な総司令官アグリッパが亡くなると、その後任の総司令官に実質的に就任し、軍事的才能0の共和国と市民の元首アウグストゥス政権を政治局員的議員として補佐した。(ローマ皇帝の皇族と標記されることが一般的である)

 

 年老いたアウグストゥスは、ティベリウスはアウグストゥスの命令によりプリンス・アウグストゥスの娘ユリーアと強制的に婚姻させられた。ティベリウスは老いたアウグストゥスの猜疑心による仕打ちをくらい、同年そのためすでに第1子ドルースス・カエサルをもうけていた妻と離婚させられた。その上、自身の仕事の後任者にティベリウスの息子であったドルーススを当たらせようと養子縁組をし、民会と元老院(セナートス)とローマ軍に根回しをした。


 しかし、溺愛していたドルーススは30代で戦死する事件が起こる、動揺したアウグストゥスはドルーススの息子で恋人のように溺愛していたガーユス・カエサル公認候補としたが19歳で病死した、仕方なく、あんまりかわいいので食べてしまった次男ルーキウス・カエサルを後任者として決めていたが14歳で病死した・・・。ローマ親衛隊はもともとガーユスとルキウスのために作ったようなものだったらしい。(古代ローマ時代でも養子縁組とかは年少の養子縁組などでは恋人少年愛的になることがマナー違反ではなかった。当時と現代ではマナーがけっこう違う。)


また、BC9トイトブルグ戦争においてゲルマニアでローマ軍団3軍団の兵士がゲルマン族の奇襲にあい皆殺し壊滅に会うなどしてアウグストゥス政権とアウグストゥス本人の動揺と猜疑心が強くなった。『ティベリウス!!、このハデス(死神)めが!!』的な切れかたをしたと思われる。老いたアウグストゥスは不幸の手紙的な迷信的災難を信じると考えられるので、ティベリウスを恨もみ妬むようになった。


 こうしてティベリウスのアウグストゥスの評価は死ぬまで最悪になったままになり、後代の歴史でも「ティベリウスはその人物その物(性格含め)アウグストゥスから忌み嫌らわれていた」という評価がついたと思われる。 冷静・怜悧な人間性を長所としている場合でも、意外に困難に直面すると脆く、信心深さは嫉妬や劇場の裏返しの時もある。



 アウグストゥスの性格は本質的に引きこもりであり、なおかつ夜神明新世界の神)目線でも、「ハハハハハ」と高笑いしていじめても別に平気な地位であったので、相当陰湿だった模様。


『死神ハデスめが!!』とことあるごとアウグストゥスに言われ続けティベリウスは、アウグストゥスによる今までの仕打ちに耐え切れずBC6にロードス島に隠遁を決め込む。


 アウグストゥスはローマをローマ共和国(S・P・Q・R)であり、自身を君主のように振舞うことひかえ、なるたけアウグストゥスの絶対権力の独断は非常に疲れるので用いずに既存の共和制のシステム(ローマ民会元老院による選挙による合議制)で解決しようと努めた。当然プリンケプス(第一人者・ローマ帝)の地位についても後任は最高国会に当たるローマ民会(コミーティア)において「形式的」であっても選挙で選んだ形で踏襲させるか、或いは才能ある人間が自身の後任者として立候補して選ばれる事を望んだと思われる。しかし、アウグストゥスは不確定な選挙で選ばれる人間に全てを託す勇気が無かったと思われる。これについては基本的に「アウグストゥスは後任者を他人に譲る事は許しがたかった」という定説が普通である。


しかし上記のとおり、アウグストゥスお気に入りの後任者的なイケメン美少年候補は連続して亡くなった、元老議員から後任者を見出そうとしたが、ほとんど粛清してしまった上、この忙しい仕事を引き受けてもらえる人物は出てきそうになかった。アウグストゥス自身も後任者を「選挙に託す」勇気がもてない。いっそのこと、死んだ後の事など投げてしまっても良いかもしれないが、また権力争いで内乱が再燃し今度こそ共和国は灰燼に喫するだろうと考えた、さすがに内乱を終結させた人が、そこは無責任なのはいかんのではないかと思った。


 しかもアウグストゥスは軍事的才覚0であるから直接軍に指揮をだそうにもまったくきちんと動かすことが出来ない人間であった。機能不全に陥ったローマは事実上の存亡の危機に陥った(笑)


 しかたなくいろいろ考え招いて、妥協をし、悶々と寝不足になるほど、悩んだ末に死神ハーデスと罵っていたロードスにいるティベリウスに戻ってきてもらって、後任者になってもらう事にした。ローマ軍をきちんと動かしてもらうため、この判断は共和国のための事である。


 BC4、ティベリウスは老アウグストゥスから『全軍司令官(インペラー)』の職を兼任する、事実上の後任者に決まった


 AD14「初代ローマ皇帝」アウグストゥス(オクタヴィヤヌス)が亡くなる。引きこもりがち美少年タイプで仕事が出来ないヘタレボウヤだった人。しかし、彼は18歳から76歳で亡くなるまで最高権力者のポジションをキープする人生を成功させたオクタヴィヤヌスが。後任者に、自分と同じような雰囲気を持つ若者を後任者にしても、自身と同じことが可能だと思っていたのかもしれない。ただし、彼みたいな「性格の比較的いい、かなり優秀な王子様的最強権力者」は以降の歴史においてもついに出てこなかった


 BC2ころ、ローマ領パレスチナ地方ナザレで後のイエス・キリストキリスト教開祖)となる人物が生まれる。彼の誕生により紀元後紀元前の区切りが生まれた。キリストの誕生の記録は、新約聖書に登場するローマ帝アウグストゥスの人口調査がきっかけとなっている。


ようやく彼ティベリウスのことが書ける。


  同年AD14、ローマ元老院(セナートス)とローマ市民(ローマ市民会議.コミーティア)よりローマ最高指導者(ローマ帝・ローマ皇帝)に就任したティベイウスは、カエサルとアウグストゥスの元首政イデオロギー路線にそったローマ共和国政治を行うとした。第一人者(プリンス)としてのペンネームは『ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス』を明記した。アウグストゥスをローマ神の一柱に加ることを元老院と民会で決定、後の歴代指導者(ローマ帝・事務局長)の神格化の先例を作る。(ソビエトや中国・北朝鮮の書記長の神格化に近いと思われる。)


 ローマ領パンノニア、ローマ領ゲルマニアで相次いでローマ軍の反乱、同盟国関係であった東ローマ地方のパルティアとの内戦など大規模な戦争行動が起こったが、先の軍事的才覚0のアウグストゥスと違い、ティベリウスは就任するまでに幾多の反乱を鎮圧を指示し全軍を率いた経験もある人間であった。杞憂な才能を持った引きこもりのアウグストゥスとは根本的に違う、大いに経験のある職業人であったから対応が出来た。全軍司令官であるティベリウスが直接ローマ軍を指揮し、前線まで赴いて鎮圧におもむいた。結果的に功を奏し、全ての軍事行動において完勝をはたした。反乱したローマ軍の将兵やゲルマン人は軒並み粛清された。

 

 これほどの戦果をのこしても、ティベリウスは自身の存在を『プリンス』と拘り、好意的なオベッカやプロパガンダ的なものを、全て法にのっとり廃した。ティベリウス自身の祝賀行事をした責任者や参加したローマ市民を厳罰に処した、ここら辺の石頭加減がローマ人には『暗い・怖い・気味が悪い(タイラント』と呼ばれるに至る原因だった。ティベリウス自身の性格から言って素直に喜んだりすることが出来ない性分だったのかもしれない。(ハリー・ポッターセブルス・スネイプ教授みたいなかんじだったのじゃないだろか。)


 AD17年ローマ共和国・ローマ軍はアナトリア半島カッパドキアを征服。ローマ領カッパドキアとした。

 その後、ティベリウスには養子のゲルマニクス(カリグラの父)の最高指導者擁クーデターが勃発する、幸いこの一見で大惨事は起こらなかったものの、ゲルマニクスとティベリウスの人間関係は冷え切る。内政においては、ティベリウスはアウグストゥスと同じく絶対権力を極力行使しない形で、既存の共和制で(ローマ民会・元老院)の合議に統治をさせていたが、元老議員との関係ははなはだかんばしくなかった。アウグストゥスのように人間不信におちいってもあまり支障がなく仕事ができ、40年も公式で独裁者でいられたことが不思議でしょうがないということだろうか、これは引きこもりの才覚なのだろうか。


 アウグストゥスよりは仕事人間としてはまともなティベリウスだったが、独裁者でいることは心身に非常にきつかったようだ。その後しだいにティベリウスは政治の仕事をローマ親衛隊長官のセイヤヌスに任せるようになり、セイヤヌス自身も権力のとりことなって気に入らない人物ら・ローマ市民を含めティベイウスに報告して粛清させた。結局、この報告されて処刑することを繰り返した結果ティベイリスの治世ははアウグストゥスの治世を上回る人々が殺された。結局、ティベリウスの治世は評判がわるくてあたりまえなのじゃないか。ティベリウスはローマ市民から歩いていても忌み嫌われるようになり、かれは引きこもらざるをえなくなった


 26年に首都ローマにいることが耐えられなくなった、みんな敵に見えるティベリウスは療養のためカプリ島に静養を開始した。



〈参考文献〉

世界百科事典19巻P77(弓削 達)


関連

次代☞カリグラ


ローマ帝国 ローマ皇帝 アウグストゥス

キリスト教 イエス・キリスト


カプリ島


〈参考文献〉

世界百科事典19巻P77(弓削 達)


〈イラスト〉

ガッタメラータ(bryan)

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