「武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの」(『葉隠』より)
中世の武士道
武士道という言葉が初出するのは戦国時代だが、武士として求められるあり方は、それより前から存在している。戦国でのその大枠は、
・戦で功績を立て、生き残る。
・それにより、仕える主家や自分の一族(家来を含む)の発展に役立てる。
というあくまでも実利的なもので、もちろん、(短期的な)利益ばかりを重視し過ぎては成り立たないため、道義を守る事も大切にされ、民衆の評判を高める事にもつながっていた。
「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」(朝倉宗滴)
「古き物語を聞ても、義を守りての滅亡と、義を捨てての栄花とは、天地各別にて候」(北条氏綱)
という対象的な言葉が伝わるが、兄や甥の下で、守護を排除してのし上がった新興の一族を支えていた宗滴(一族としての功績を上げるのが必要だが、個人で必要以上の人望を得るのは危険)と、当主ではあるが地域において新参者であった氏綱(味方を増やし生き残る事が最優先)の立場の違いもあるだろう。
当時の主従関係はあくまでも、主君の「御恩(社会的保証を与える)」と臣下の「奉公(仕える)」が揃っていないと成り立たない双務的なものであり、能力の無い暗君や民衆・臣下に害を与える暴君は、むしろ見捨てられて当然であった。江戸時代以降のように一方的な奉公を要求しても、
と返されるのがオチであっただろう。
近世の武士道
江戸時代には中世由来の敵討が制度化され、また切腹が確立した。
1615年の大阪夏の陣で豊臣氏が滅ぼされると、徳川幕府の絶対的な支配が確立し、戦国の世は完全に終焉を迎えた。天下泰平の時代となり戦争が起こらなくなると、導入された儒教思想に基づいた、武士という共同体の職業倫理であり道徳律でもある武士道が形作られていく。武士道は、「奉公とは「御恩」の対価である」とするような実利的なものから、名誉を何よりも重んじ、主君への絶対的な忠誠を要求するものへと変化していった。ただ、あまりにも行跡の悪い、いわゆる「バカ殿」は、江戸時代においても家臣合議のうえ「主君押込」で排除される慣習もあった。
なお、上記の佐賀藩の山本常朝の「葉隠」は今でこそ知名度は高いが、江戸時代に知られていたのは佐賀藩の中だけであり、内容は行動と倫理を切り離すような近世風の武士道を否定するものである。また、藩主の側近であったという経歴と内容は強い関係があり、直接の主君に仕える事を最優先している。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
という有名な言葉があるが、これはあくまでも「死に物狂いで取り掛かれ」という意味であり、正しい判断により正しい行動を行えた時に避けられない死を迎えるのならともかく、無意味に死ぬ事は勧めていない。
近代以降の武士道
明治維新以降、新政府は武士階級の解体を行った。身分ではなく能力によって官位が決まる社会に移行することで、富国強兵を果たそうとしたのである。 不満を持った士族による反乱も相次いだが、どの反乱も鎮圧され、武士の時代は完全に終わりを告げる。
ところが、日清戦争以降、武士道は武士という特定階級を超えた国民道徳として再生させられる。この過程において「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の『葉隠』の一節が過剰に強調され、日本の陸海軍において兵士が刺し違えてでも敵を倒し国を守ることを重んじる『玉砕』の体質が形作られていった。
騎士道との対比
日本の武士道は、ヨーロッパの騎士道と対比されることがよくある。
主な違いとして、武士道の場合は名誉を、騎士道の場合は正義を重んじる傾向がある。戦争において武士道では敵への降伏を拒否し自決する行為があるが、騎士道では代わりに死ぬまで抗戦することとなる。これはキリスト教において自殺が禁じられているためである。
また、騎士道の誓いである十戒などは、契約上「しなくてはならない」という強制であり、武士道の場合は行動基準とされる五常(仁・義・礼・智・信)などはあくまでも理想であり、重んじられているが強制ではない。
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断じて違う。