江戸時代以前の日本において、キリスト教カトリックを信仰した人々。近代以降のキリスト教徒はクリスチャンと表記する。前近代の日本ではプロテスタントは布教されず、プロテスタント信者のオランダ人たちはキリシタンとは認識されなかった。
概要
戦国時代に宣教師(バテレン)により伝わったカトリック信仰は、九州を中心にその支持者を広め、安土桃山時代にはカトリックを信仰する領国の支配者であるキリシタン大名が出てくるほどだった。
しかし、彼らの中には日本で古来から信仰される神道や、神道と結びつきが強い仏教など、土着の信仰を異教だと敵視し、寺社仏閣を襲撃して建造物や像などを破壊し冒涜する蛮行を働いた。
これには貿易によって影響力を強めていたキリスト教修道会のイエズス会が、キリシタン大名を援助することで権力争いに介入することで、神社仏閣の物理的な破壊に暗黙の了解を与えて、土地の寄進や寺社の破壊を大名や信者たちに行わせていたことも起因している。
また、これに乗じてポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売り捌いていたことも発覚し、事態を重く見た豊臣秀吉はイエズス会日本支部準管区長のガスパール・コエリョを問い詰め、イエズス会が事態の終息に消極的なの知ると伴天連追放令を発令。後に徳川幕府によってキリスト教は禁教とされた。
彼らの多くはキリスト教が禁止された江戸時代に信仰を捨てる事を強いられたが、一部の者は隠れてカトリックの流れをくむ信仰を続けた。漢字では吉利支丹と表記するが、禁教以降は切利支丹、鬼理死丹などと蔑称的表記もなされるようになった。
禁教以降は大変に厳しく取り締まられるようになり、「隠れキリシタン」として仏教的、神道的なカモフラージュで自身の信仰を守らざるを得なくなった。白衣観音や慈母観音を聖母マリア像に見立てたり(マリア観音)、仏像の裏や底、ポーズの中に「十字」のマークを潜ませる、経文や祝詞に偽装して主の祈りや聖句を唱える(オランショ、あるいはオラショと呼ばれる)等の努力がなされた。
当時翻訳された聖書の巻はごく一部であり、禁教により宣教師の指導、日本人司祭の育成が出来なくなってしまったこともあり、時代を経るにつれその信仰内容は変質し、また本来はカモフラージュにすぎなかった仏教や神道の信仰に愛着を感じるものも出てくるに及び、元のカトリックとは別物になってしまった。
禁教がなくなり、信仰の自由が認められた近代に至ると、大半はカトリック教会に復帰し、もしくは教会との接触を嫌って仏教や神道だけを信仰するようになったが、現代においても、変質した「カクレキリシタン」の教えを継承する人々がいる。
現在の、特に長崎のカトリック信徒は、辛い禁教の記憶を思い起こさせる「キリシタン」を自称せず、そう呼ばれることを好まない傾向にある。
2015年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産への推薦書を提出していたが、2018年6月30日に日本としては22件目の世界遺産として登録される事となった。