概要
アメリカ合衆国のコンピューターエンジニア。ポーランド系アメリカ人の父とドイツ系スイス人の母を持つ。
フルネームは「ステファン・ゲーリー・ウォズニアック(Stephen Gary Wozniak)」。愛称は「ウォズ」。
Apple社の共同創業者の一人であり設立時から副社長を務めた。
多くのコンピュータ関係者から人柄と技術力を慕われており「ウォズの魔法使い」とも呼ばれている。
経歴
生年月日は1950年8月11日。
後にシリコンバレーの中心地として栄えることになるカリフォルニア州サンノゼにて生まれた。
6歳でアマチュア無線機を自作し、13歳の頃に原始的なコンピュータを作って科学コンクールで優勝している。
その後カリフォルニア大学バークレー校に進学し、1971年にヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、当時高校生だったスティーブ・ジョブズと出会う。
カウンターカルチャー型のウォズとヒッピー型のジョブズは容姿も性格も正反対だったがすぐに意気投合し、二人で「ローマ教皇に国務長官を騙って電話を掛ける」という良く分からない悪戯もした。
1973年にウォズはヒューレット・パッカードに入社。片やジョブズは1974年にゲーム会社のAtariに入社。
1975年にジョブズはAtariの新作「ブロック崩し」の部品減らしを命じられたが、自分では無理だと察したジョブズは秘密裏にウォズをAtari社内に招いて、報酬の山分けと引き換えに部品減らしの作業を依頼した。これを引き受けたウォズは4日間の徹夜の末に部品数を大幅に節減したが、結果的にウォズ以外には理解できない難解な設計になってしまい、ジョブズは再設計を命じられたものの解決できず再びウォズを頼った。そこでウォズは若干部品数を増やしながらも誰でも理解できるよう設計変更を行い、ジョブズは報酬を受け取ることができた。
山分けされた報酬をジョブズから受け取ったウォズだったが、この際にジョブズは5000ドル受け取っていた報酬を700ドルと偽りピンハネした。十年近くこのことを知らされていなかったウォズだったが、後にウォズは例え25セントしか貰えなくても引き受けただろうと語っており、ピンハネされたことに対しても
「でもそれでいいのさ。僕はゲームを作れば子供達が喜ぶと思って頑張ったんだからね」と語っている。
1976年にマイクロコンピュータ「AppleⅠ」をほぼ独力で開発。
当初は二人が所属していたヒューレット・パッカードやAtariに商品化してもらうつもりだったが断られたため、自力で販売する決意を固める。販売資金を集めるためにジョブズは愛車を、ウォズはヒューレット・パッカード製のプログラミング電卓を売却しており、文字通り私財を投じて生産資金を確保した。
AppleⅠは当初売れ行きが良くなかったが8月頃から一気に好転し、ジョブズはこの利益を元手に起業を決意する。ウォズは当初会社設立に消極的だったが、ジョブズから「一度くらい失敗したって良い。それよりも、俺は一度会社を作ったことがあるんだぜと言えることの方が大切だ」と口説かれ起業に参加。1977年1月3日にジョブズ達と共にアップルコンピュータを創業し、ウォズは副社長となった。
ウォズは後継機となるパソコン「AppleⅡ」をほぼ独力で開発。
本機種は爆発的人気を呼び、パソコン普及に貢献した。
しかし後継機の「AppleⅢ」は技術者主導ではなく販売部門主導で開発されたために設計上多数の欠陥を抱え、故障が多発し商業的失敗作となった。
その後アップルがMacintoshに注力しAppleⅡを冷遇し始めたことに対し不満を持ち、1985年2月6日にアップルを退社。同年9月にジョブズもアップルを退社している。
アップルを去ったウォズはリモコン製作会社を設立しており、世界初のプログラマブルリモコンを製作している。その後も実業家として活躍している。
その他
アップルがMacintoshに注力しAppleⅡを冷遇していたことに不満を持っていたが、自身もMacintoshを長年愛用しており、退社後のアップルが開発したOSXやiPhone等も高く評価している。
Macintoshの開発陣もAppleⅡで鍛えられた者ばかりであった。
テトリスの達人でもあり、北米の任天堂専門ゲーム雑誌「ニンテンドウパワー」のゲームボーイ版テトリスのハイスコアランキングで1位を独占し続けていた。
1位独占が長続きしすぎて雑誌側から掲載を断られた際には名前を逆さまにした「Evets Kainzow」で投稿して引き続き1位を保持した。北米では未発売のゲームボーイライトを所持しており、2013年になっても愛用していることが確認されている。