霊元天皇の第4皇子、幼名は五宮、名は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。母は内大臣松木宗條の娘、典侍宗子(敬法門院)。
経歴
霊元天皇の第4皇子として誕生。天和3年(1682年)3月に儲君となり、12月に親王宣下があった。天和3年(1683年)2月に直仁親王(崇光天皇皇太子、南朝により廃される)以来300年ぶりの立太子礼を経て皇太子となる。貞享4年(1687年)1月に元服し、同年3月21日に霊元天皇の譲位にともない践祚した。同年4月に即位式をあげた。さらに11月16日には長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた。この背景には朝儀復活や王政復古運動に尽力していた父・霊元天皇の意向が強く働いていた。
東山天皇の治世は23年に及ぶが、その全期を通じて父・霊元上皇が院政を敷いた。しかし1690年には幕府の後押しを受ける近衛基熙が霊元上皇の後押しを受ける一条兼輝を失脚させて朝廷政治の実権を掌握したため、その後、関白近衛基熙と霊元上皇の院政との間で「幕府との距離」をめぐって対立が深まった。1694年、霊元上皇は政務の天皇への移譲を宣言するものの、実権は依然として上皇の手中にあった。更に1697年には母・松木宗子(敬法門院)の信任の厚かった議奏中御門資熙の更迭問題を巡って両親と対立して中御門の普段からの天皇軽視の言動に不快感を抱いていた近衛基熙との関係を強めた。その後、天皇は近衛基熙の補佐を受けて親政を遂行するようになる。
しかし東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在職期間と重なっている。徳川綱吉はことのほか皇室を敬ったため、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していた。この結果、御料(皇室領)は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。次の将軍徳川家宣は近衛基熙の娘婿にあたり、東山天皇-近衛基熙-徳川家宣のラインの完成によって朝幕関係はもっとも安定した時期を迎える。天皇の在世中には実現できなかったものの、天皇の皇子・直仁親王によって新宮家(閑院宮家)を設置するに至ったのもこうした良好な幕府との関係を抜きにして語ることは出来ない。ただし、1700年には幕府に無断で武家伝奏の正親町公通を罷免している。それまで、武家伝奏の人事は幕府が行っていたが、天皇が幕府の許しを得ずに伝奏を罷免して、幕府にそれを異論を挟まなかったことは武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻すきっかけとなった。
ちなみに1701年3月には、東山天皇が江戸へ派遣した勅使、柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家吉良義央に斬りかかるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。近衛基熙の日記は、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している。焼失した内裏の修理を行った浅野家に対し、後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう吉良義央を、東山天皇は嫌っていたと見られる。また、帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行った。
宝永6年、中御門天皇に譲位。父・霊元法皇を抑える形で自ら院政を開始するが、その後まもなく天然痘にかかって崩御。34歳。
系譜(早世したのは除く)
中宮:幸子女王(承秋門院)
典侍:櫛笥賀子(新崇賢門院)
第五皇子:慶仁親王(中御門天皇)
典侍:冷泉経子
第三皇子:公寛法親王
掌侍:高辻長豊の娘
孫
倫子女王(閑院宮直仁親王の王女)